秀長の家臣は徳川の世で何をしたのか|藤堂高虎・小堀遠州・桑山重晴・本多俊政 ― 秀長の家で育った力が家康の国づくりを支えた

駿府城の座敷で徳川家康に藤堂高虎が城の縄張り図を説明し、小堀遠州が茶を点てる様子を描いた日本画風イラスト

豊臣秀長は天正19年(1591)に亡くなり、跡を継いだ養子の秀保も文禄4年(1595)に急死して、大和大納言家は絶えました。主家を失った秀長の家臣たちは、その後どこへ行ったのでしょうか。じつは、そのうちの何人かは徳川家康のもとで重く用いられ、江戸幕府の国づくりにかかわっていきます。この記事では、秀長の家臣のうち家康の側についた人たちを取り上げ、秀長の家で身につけた力が徳川の世でどう生きたのかを見ていきます。

先に答え

秀長の家臣で関ヶ原の戦いのときに家康の側についたのは、藤堂高虎、小堀正次・遠州の父子、桑山重晴、本多俊政(父・利久が秀長の家臣)らです。

高虎は築城、小堀父子は検地や建物の普請と茶の湯、桑山と本多は城の守りというように、秀長の家で受け持った役目がそのまま徳川の世でも生かされました。秀長の家は、戦よりも「国を治める実務」を得意とする人材を育てていたといえます。

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目次

一覧 ― 家康の側についた秀長の家臣たち

まずは、秀長の家臣で関ヶ原の戦いのときに家康の側(東軍)についた主な人物を表にまとめます。

人物秀長の家での役目関ヶ原徳川の世で
藤堂高虎紀伊粉河の城主。城の普請を担う東軍で大谷吉継隊と戦う伊勢津藩の祖。江戸城の縄張りなど家康の城づくりを支える
小堀正次家老。紀伊・大和の検地を担う東軍備中の代官として松山城に入り、大名に
小堀遠州(政一)秀長の小姓東軍に従う駿府城・名古屋城天守の作事奉行。伏見奉行、将軍家の茶道師範
桑山重晴和歌山城代家康方として和歌山城を守る和歌山を浅野家にゆずり、83歳まで生きる
本多利久・俊政大和高取城の城主俊政が東軍につく初代高取藩主(2万5千石)

このほかの家臣も含めた秀長の家臣団の全体像は豊臣秀長の家臣一覧にまとめています。

藤堂高虎 ― 秀長に育てられ、家康にいちばん信頼された外様大名

藤堂高虎は近江の出身で、浅井家などいくつもの主君を渡り歩いたのち、秀長に仕えました。秀長のもとで紀伊の粉河城をまかされ、城の普請(建築工事)を受け持つうちに、築城の名手として知られるようになります。

秀長と秀保が亡くなると秀吉の直臣となり、伊予の宇和島へ移りました。秀吉の死後は早くから家康に近づき、関ヶ原では東軍として大谷吉継の隊と戦います。その後は伊勢津藩の藩祖となり、江戸城の縄張り(城の設計)をはじめ、家康が進めた城づくりの多くにかかわりました。

藤堂高虎が築いた宇和島城の天守
宇和島城(愛媛県宇和島市)。高虎が伊予宇和島の領主だったころに築いた城
藤堂高虎が大改修した津城の石垣と丑寅櫓
津城(三重県津市)。津藩の藩祖となった高虎が大改修した城で、高い石垣が残る

高虎は外様大名でありながら、家康から深く信頼されました。家康が亡くなる前、高虎を枕元に呼んだという話も伝わっています。秀長の家で磨いた「城をつくる力」と「人と人をつなぐ力」が、家康にとって欠かせないものだったのでしょう。宇和島城とのかかわりは藤堂高虎と宇和島城で紹介しています。

小堀正次 ― 秀長の検地を担った家老、備中の代官に

小堀正次も近江の出身です。浅井家が滅んだあと秀長に仕え、家老として紀伊や大和の検地(田畑の調査)を担いました。広い領国を治めるための数字の仕事を受け持つ、いわば実務の専門家です。

秀長の死後は秀吉に仕え、関ヶ原では家康の側につきます。戦後は備中で加増されて大名となり、備中の代官として松山城に入って国の仕事をまかされました。慶長9年(1604)に亡くなっています。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では萩原護さんが正次を演じています。

山上に建つ備中松山城の天守と石垣
備中松山城(岡山県高梁市)。正次は備中の代官としてこの城に入った

小堀遠州 ― 秀長の小姓から、将軍家の茶道師範へ

正次の子・小堀遠州(政一)は、天正7年(1579)に近江で生まれました。天正13年に父とともに大和郡山城に入り、秀長の小姓として仕えます。天正16年(1588)、秀吉が秀長の屋敷を訪れたときの茶会で給仕を務め、千利休から初めて茶の手ほどきを受けたと伝えられています。

秀吉の死後は家康に仕える道を選び、関ヶ原にも従軍しました。父の跡を継いだあとは、駿府城(慶長13年)や名古屋城天守(慶長17年)の作事奉行を務めます。作事奉行とは、城や御殿の建物づくりを取り仕切る役です。のちに伏見奉行となり、茶の湯では「綺麗さび」とよばれる美しさを打ち出して、将軍家光の茶道師範と呼ばれるまでになりました。

茶室で小堀遠州が将軍徳川家光に茶を点てる様子を描いた日本画風イラスト
将軍家光に茶を点てる小堀遠州(イメージ)

秀長の家で過ごした少年時代に、茶の湯と普請という2つの道に出会ったことが、遠州の一生を決めたといえるかもしれません。小堀家が秀長の死から関ヶ原、徳川の世をどう生き残ったのかは、姉妹サイトの小堀家はどう生き残ったのか(日本の歴史ガイド)でくわしく解説しています。

桑山重晴 ― 和歌山城を守りぬいた老将

桑山重晴は尾張の出身で、賤ヶ岳の戦いの手柄で但馬の竹田城を与えられ、のちに秀長に属しました。天正13年(1585)に秀長が紀伊を治めるようになると、和歌山城代として現地の支配をまかされます。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では住田隆さんが重晴を演じています。

和歌山城の石垣と白壁の櫓、奥に天守
和歌山城(和歌山県和歌山市)。重晴は秀長の城代としてこの城をまかされた

関ヶ原の戦いでは家康に味方し、和歌山城を守りました。戦後、和歌山には浅野幸長が入り、重晴は大和で隠居料を受けて慶長11年(1606)に83歳で亡くなりました。秀長に城をまかされた老将が、最後は家康の側で城を守って一生を終えたことになります。

本多利久・俊政 ― 大和の高取城を守った父子

本多利久は、秀長から大和の高取城をまかされた家臣です。山の上にある高取城は、秀長の大和支配の大切な守りでした。その子・俊政は秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍につきます。戦後、所領を認められて高取藩の初代藩主(2万5千石)となりました。

徳川家の本多忠勝や本多正信と同じ本多の姓ですが、別の家です。秀長の家臣の家が、関ヶ原ののちも大和の城主として続いたことになります。

西軍についた秀長の家臣たち

もちろん、全員が家康の側についたわけではありません。家老格だった宇多頼忠は、娘が石田三成の妻だったこともあって三成に仕え、関ヶ原のあとの佐和山城の落城で自害しました。紀伊田辺の杉若無心や、大和宇陀の多賀秀種は西軍について所領を失っています。

秀長の家臣の運命は、関ヶ原でどちらについたかによって大きく分かれました。

【考察】なぜ秀長の家臣は家康のもとで重く用いられたのか

ここからは筆者の考えです。秀長の家臣が徳川の世で活躍できた理由は、大きく3つあると考えます。

1つ目は、秀長の家が「戦う力」よりも「治める力」を持つ人を育てていたことです。築城、検地、建物の普請、寺社との交渉。秀長が大和・紀伊・和泉の約100万石を治めるために必要だった仕事は、家康が全国を治めるときに必要な仕事と同じでした。

2つ目は、主家がなくなったことです。大和大納言家は秀保の死で絶えたため、家臣たちは豊臣家への「家の恩」にしばられることが比較的少なかったと考えられます。

3つ目は、家康が秀長の家の人たちをよく知っていたことです。上洛のとき家康は秀長の屋敷に泊まり、秀長は家康と豊臣政権のあいだに立つ窓口でした。秀長の家臣たちの働きぶりを、家康はそばで見ていたはずです。秀長と家康の関係は秀長と家康の関係を年表で整理でくわしく見ています。

まとめ

秀長の家臣のうち、藤堂高虎、小堀正次・遠州父子、桑山重晴、本多俊政らは、関ヶ原で家康の側につき、徳川の世を生きました。築城の高虎、普請と茶の湯の遠州、城を守った桑山と本多。秀長の家で育った「国を治める力」は、主君が亡くなったあとも形を変えて、江戸幕府の国づくりを支えていったのです。

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