大河『豊臣兄弟!』の登場人物ガイド ― 誰がどの役?
大河『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長は、大和・紀伊・和泉を治める約100万石の大大名でした。その広い領国を実際に動かしていたのが、秀長の家臣団です。築城の名手・藤堂高虎、「三家老」と呼ばれた横浜一庵・羽田正親・小川下野守、そして材木事件で処刑された吉川平介。秀長のもとには、どんな人たちがいたのでしょうか。
この記事では、秀長の主な家臣を役割ごとに一覧にし、それぞれが秀長に仕えた経緯や、秀長亡きあとどうなったのかまで整理します。
この記事のポイント
- 秀長の家臣団の中心は「三家老」(横浜一庵・羽田正親・小川下野守)
- 城を預かる重臣に藤堂高虎・桑山重晴ら、実務の奉行に小堀正次・吉川平介らがいた
- 近江出身者が多く、秀長が長浜時代から近江で人を集めたことがうかがえる
- 秀長と養子・秀保が亡くなると大和大納言家は断絶し、家臣たちは秀吉の直臣などへと散っていった

豊臣秀長の家臣一覧表
| 名前 | 役割・所領 | 出身・経歴 | 秀長の死後 |
|---|---|---|---|
| 横浜一庵 | 三家老。5万石で家中最高。興福寺との取次 | 出身不明。大和入国のころから名が見える | 秀吉の直臣。慶長伏見地震で圧死 |
| 羽田正親 | 三家老。大和小泉城、のち宇陀松山城 | 近江蒲生郡の出身 | 秀次に仕え、秀次事件に連座して自害と伝わる |
| 小川下野守 | 三家老。3万5千石とされる | 近江出身とされる。記録が少ない | 行方ははっきりしない |
| 藤堂高虎 | 紀伊粉河の城主。城の普請(築城)を担う | 近江出身。浅井・阿閉・磯野らに仕えたのち秀長へ | 秀吉の直臣となり伊予宇和島へ。のち津藩の祖 |
| 桑山重晴 | 和歌山城代(紀伊) | 尾張出身。但馬竹田城主から紀伊へ | 秀吉の直臣。関ヶ原では東軍 |
| 杉若無心 | 紀伊田辺の領主 | 越前出身、もと朝倉家臣 | 秀吉の直臣。関ヶ原で西軍につき改易 |
| 本多利久・俊政 | 大和高取城 | 水野氏の出身で本多姓を名乗る | 秀吉の直臣。関ヶ原では東軍で高取城を守る |
| 小堀正次 | 検地奉行。紀伊・大和の検地を担う | 近江出身 | 秀吉の直臣。関ヶ原後に備中松山藩主。小堀遠州の父 |
| 吉川平介 | 船奉行・熊野山奉行。7千石 | 伊勢大湊の船奉行だったとも、長浜の商人だったともいう | 秀長の生前、天正16年(1588)に材木事件で処刑 |
| 宇多頼忠 | 家老格。大和・河内で1万3千石 | 尾藤知宣の弟とされる。娘が石田三成の妻 | 三成に仕え、関ヶ原の佐和山落城で自害 |
| 多賀秀種 | 与力。大和宇陀に2万石あまり | 美濃の堀氏の出身。堀秀政の弟 | 関ヶ原で西軍につき没収、のち前田家に仕える |
| 豊臣秀保 | 秀長の養嗣子。大和大納言家を継ぐ | 秀吉の姉・ともの子。秀次の弟 | 文禄4年(1595)に17歳で急死。家は断絶 |
※紀伊の玉置氏・湯川氏など、もとからその土地にいた国衆も秀長の配下に組み込まれました。役割や石高は時期によって変わります。

三家老 — 大和を治めた横浜一庵・羽田正親・小川下野守
秀長の家臣団の頂点にいたのが、「三家老」と呼ばれた3人です。
横浜一庵 — 家中最高の5万石
天正13年(1585)に秀長が大和に入国したころから名が見え、家中で最も多い5万石を与えられました。大和の支配でいちばん難しかったのが、寺社の力が強い土地柄、とくに興福寺との関係です。一庵はその取次役を務め、寺社領の見直しや検地への対応で中心的な役割を果たしました。
羽田正親 — 城と土木の家老
近江の出身で、大和小泉城、のちに宇陀松山城を預かりました。城の堀を整えるなど土木の仕事も手がけています。秀長の死後は秀次に仕えたため、秀次事件に巻き込まれ、自害したと伝わります。
小川下野守 — 記録の少ない「謎の家老」
三家老の一人とされながら、実名も生没年もはっきりしない人物です。秀長の家臣団には、このように名前だけが伝わる人も少なくありません。
城を預かった重臣 — 藤堂高虎と桑山重晴
藤堂高虎 — 秀長が見いだした築城の名手
近江の出身で、浅井家などを渡り歩いたのち、秀長に仕えました。秀長のもとで城の普請(工事)を任され、紀伊粉河の城主となります。のちに「築城の名人」と呼ばれる高虎の才能を育てたのは、秀長だったといえるでしょう。秀長と秀保が亡くなったあと、高虎は出家して高野山に入りますが、秀吉に呼び戻されて伊予宇和島の大名となりました(藤堂高虎と宇和島城)。
桑山重晴 — 和歌山城を預かった老練の武将
尾張の出身で、賤ヶ岳の戦いでは砦を守りました。紀州攻めのあと、秀長の紀伊支配の拠点・和歌山城を任されます。秀長より10歳以上年上の、経験豊かな武将でした。
実務を担った奉行 — 小堀正次と吉川平介
小堀正次 — 検地の実務家
近江の出身で、紀伊や大和の検地を担いました。戦の手柄よりも事務の力で取り立てられた家臣です。子の小堀政一は、のちに茶人・作庭家として名高い小堀遠州です。
吉川平介 — 海と山を任された奉行
紀伊の海運を担う船奉行と、熊野の山林を管理する山奉行を兼ね、7千石を与えられました。天正13年(1585)の四国攻めでは、大軍を海を越えて運ぶ船の手配にかかわったとされます。しかし天正16年(1588)、熊野の材木2万本あまりの売上をめぐる不正で秀吉の怒りを買い、大和の西大寺で処刑されました。秀長自身も監督責任を問われ、翌年の正月の挨拶を秀吉に拒まれています(吉川平介と材木事件、熊野の材木はどこへ運ばれたのか)。
秀長の家臣はどこから来たのか — 近江と「寄せ集め」の家臣団
秀長の家臣団を見渡すと、近江出身者が多いことに気づきます。羽田正親・小川下野守・藤堂高虎・小堀正次などがそうです。秀吉が近江の長浜城主となり、秀長もその下で近江にいた時代に、地元の武士を家臣として集めたことがうかがえます。
一方で、尾張出身の桑山重晴、越前出身の杉若無心、美濃出身の多賀秀種など、さまざまな土地の出身者もいました。農民の出である豊臣兄弟には、代々仕える家臣がいません。秀長の家臣団は、才能のある人を各地から集めた「寄せ集め」の家臣団だったのです。
秀長の死後、家臣たちはどうなったのか
秀長は天正19年(1591)に亡くなり、養子の秀保が跡を継ぎました。しかし文禄4年(1595)に秀保が17歳で急死すると、大和大納言家は断絶します(豊臣秀長の家はその後どうなった?)。
家臣たちの多くは秀吉の直臣となり、それぞれの道を歩みました。藤堂高虎・桑山重晴・本多俊政・小堀正次のように、関ヶ原で東軍につき、江戸時代の大名として家を残した人がいる一方、杉若無心や多賀秀種のように西軍について領地を失った人、宇多頼忠のように佐和山城で命を落とした人もいました。秀長という主君を失ったことが、家臣たちの運命を大きく分けたのです。
よくある質問
Q. 秀長の家臣で一番有名なのは?
A. 藤堂高虎です。秀長のもとで築城の才能を発揮し、のちに伊勢津藩32万石の大名となりました。
Q. 吉川平介の「吉川」は何と読む?毛利家の吉川と関係ある?
A. 「きっかわ」と読むのが一般的で、「よしかわ」と読まれることもあります。毛利元就の子・吉川元春で知られる毛利家の吉川(きっかわ)家と同じ字ですが、平介との血のつながりを示す史料は見当たりません。
Q. 秀長の家臣は何人いた?
A. 正確な人数はわかりません。100万石の大名にふさわしく、家老から奉行、足軽まで含めれば大きな家臣団だったと考えられます。この記事では、名前や役割がわかる主な家臣を取り上げました。
まとめ
豊臣秀長の家臣団は、三家老を中心に、城を預かる重臣、検地や海運・山林を担う奉行たちで構成されていました。近江を中心に各地から集められた人々は、秀長のもとで大和・紀伊の統治を支え、秀長亡きあとは東軍・西軍に分かれてそれぞれの運命をたどります。大河ドラマで新しい家臣が登場したら、この一覧でその人物を探してみてください。
各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 日本の歴史ガイド(姉妹サイト)





















































