ほりうち うじよし
| 地域 | 近畿(紀伊・新宮) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 堀内氏(熊野の国衆)→ 豊臣氏 |
| 大名家 | 堀内家 |
| 家紋 | 不詳 |
| 主武器 | ―(采配) |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 熊野水軍の将 |
堀内氏善(ほりうち うじよし)は、紀伊の熊野地方・新宮を本拠とした堀内家の当主で、熊野水軍をひきいた。天文18年(1549年)に生まれ、元和元年(1615年)に亡くなった。熊野一帯をまとめて勢力をふるい、豊臣秀吉に従って朝鮮出兵にも水軍として加わったが、関ヶ原の戦いで西軍について所領を失った。
- 熊野の新宮を本拠とし、熊野水軍をひきいた
- 紀州征伐のあと豊臣秀吉に従い、所領を認められた
- 関ヶ原の戦いで西軍につき、改易された
熊野の支配者へ
堀内家は、平安時代から熊野三山をまとめてきた熊野別当の子孫を名乗った熊野の武士である。氏善ははじめ熊野川の河口に近い佐野(新宮市)あたりを拠点としていたが、新宮の有力者だった新宮氏を従えて新宮を手に入れ、熊野速玉大社の南に屋敷をかまえて本拠を移した。この屋敷は「堀内新宮城」ともよばれる。
熊野は山が海まで迫る土地で、田畑は少ないが、材木と海の道があった。熊野の武士たちは船を操ることに長け、のちに熊野水軍(熊野海賊)とよばれた。氏善もその出身とされ、周りの小さな勢力を攻め取りながら、熊野の海と山のかなりの部分を押さえていった。
織田から豊臣へ
織田信長が伊勢の北畠氏を従えて紀伊の南まで力が及ぶようになると、氏善は織田方についたと伝わる。本能寺の変のあと、豊臣秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破ると、氏善は秀吉のもとに駆けつけ、所領を加えられたという話も残る。
天正13年(1585年)、秀吉が紀州征伐を行うと、雑賀衆や根来衆、湯川直春らが抵抗するなかで、氏善は早くから秀吉に従い、新宮を中心とする所領を認められた。紀伊は秀吉の弟・豊臣秀長の領地となり、田辺には秀長の家臣・杉若無心が入った。熊野の海側を任されたのが氏善だったといえる。
北山一揆と熊野の押さえ
天正14年(1586年)、熊野の山奥・北山郷で地侍たちが一揆を起こし、秀長は自ら兵を率いて熊野へ入った。このとき氏善は豊臣方として、地元の地理にくわしい熊野の武士の立場から鎮圧に加わったと考えられている。山深い北山の一揆は簡単には収まらず、天正16年(1588年)からの北山攻めでは、氏善も北山に城を築いたと伝わる。一揆の流れは北山一揆(秀長の熊野攻め)の解説でくわしく紹介している。
天正19年(1591年)には、秀吉から熊野の地をまとめて任され、2万7千石ほどの大名となったとされる。熊野の材木は大坂城や方広寺大仏殿の造営にも使われ、熊野を押さえる氏善は豊臣家にとって欠かせない存在になっていった。
朝鮮へ渡った熊野水軍
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、氏善は熊野の水軍を率いて朝鮮へ渡った。同じ紀伊・志摩の海の武士である九鬼嘉隆や杉若氏とならび、水軍の出身から豊臣の大名となった代表的な一人である。
関ヶ原と改易、そして肥後へ
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、氏善は石田三成らの西軍についた。九鬼嘉隆とともに熊野の水軍を率いて伊勢方面で戦ったとされるが、西軍の敗北を知って新宮へ引き上げる。和歌山城の桑山一晴の軍が迫ると新宮を離れ、やがて降伏した。所領は没収され、紀伊は浅野幸長の領地となり、新宮には浅野家の重臣が入って丹鶴山に新しい新宮城が築かれた。
命は助けられた氏善は、その後、肥後の加藤清正に仕え、2000石ほどを与えられたとされる。宇土(熊本県宇土市)に住んだとも伝わり、慶長20年(元和元年、1615年)に67歳で亡くなった。宇土市には氏善の墓とされるものが残っている。熊野の海の領主が、遠く肥後で一生を終えたことになる。
堀内氏善をめぐる人物
- 主君:豊臣秀吉
- 同じ紀伊南部の武将:杉若無心/湯川直春
- あとの紀伊の領主:浅野幸長
ゆかりの地
- 新宮城跡(丹鶴城公園)(和歌山県新宮市):堀内家の本拠の地
- 熊野速玉大社(和歌山県新宮市):熊野三山の一つ


杉若無心
豊臣秀吉
豊臣秀長
浅野幸長
加藤清正





































