八王子城の戦いをわかりやすく解説|北条氏照の城はなぜ一日で落ちたのか ― 霧の夜襲、御主殿の滝の悲劇、小田原開城へ

八王子城の御主殿へ渡る曳橋

天正18年(1590)6月23日、秀吉の小田原征伐のさなか、北条氏照の居城・八王子城(いまの東京都八王子市)が、わずか一日で落城しました。城主の氏照は小田原城に詰めていて留守で、城を守っていたのは少ない将兵と、城に逃げこんだ領民たちでした。攻めたのは前田利家と上杉景勝の大軍。御主殿の滝に女性や子どもが身を投げたという悲しい話も伝わる、小田原征伐でもっとも激しい戦いの一つです。八王子城の戦いを、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。

先に答え

八王子城の戦いは、秀吉の小田原征伐で、前田利家・上杉景勝らの大軍が、北条氏照の八王子城を攻め落とした戦いです。氏照は兵の多くを連れて小田原城にこもっていたため、八王子城には城代の横地監物ら少数の将兵と、領民をあわせて3,000ほどしかいませんでした。

6月23日の未明、霧にまぎれて攻めこんだ豊臣方は、ふもとの根小屋から山頂まで曲輪を次々に落とし、城はその日のうちに落ちました。城兵の多くが討たれ、御主殿の女性たちは滝に身を投げたと伝わります。八王子城の落城は小田原城の北条方の心を折り、7月5日、北条氏直は降伏しました。

八王子城の戦いの基本データ

いつ 天正18年(1590)6月23日(未明から攻撃が始まり、その日のうちに落城)
どこ 武蔵国の八王子城(いまの東京都八王子市元八王子町)。標高約460mの深沢山(城山)に築かれた山城
対立 豊臣方(前田利家・上杉景勝ら)× 北条方(城代・横地監物、中山家範、狩野一庵ら。城主の北条氏照は小田原城にいて留守)
兵力 豊臣方 1万5千〜3万余(史料により幅がある)、北条方 約3,000(領民を含む)(いずれも通説)
結果 豊臣方の勝利。守将の多くが討死・自害し、城はわずか一日で落ちる
この後 7月5日に北条氏直が降伏し、小田原城が開城。7月11日、北条氏政と氏照が切腹し、戦国大名としての北条家は滅ぶ
霧にまぎれて八王子城に攻めかかる豊臣方の大軍のイメージ
霧にまぎれ、松明を手に八王子城へ攻め上がる豊臣方の大軍(イメージ)

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目次

八王子城の戦いの年表

年月日 おもな出来事
永禄年間(1560年代) 北条氏照が大石氏の跡を継ぎ、滝山城を本拠として武蔵の西を治める
永禄12年(1569) 武田信玄が小田原に攻めこむ途中、滝山城を囲む。城は落ちなかったが、三の丸近くまで攻めこまれる
天正年間(1580年代) 氏照が、より山深い深沢山に新しい城・八王子城を築きはじめる。天正15年(1587)ごろに本拠を移したとされる
天正17年(1589)10月 北条家の家臣が真田領の名胡桃城を奪う。秀吉は北条を討つことを決める
天正18年(1590)3〜4月 秀吉の小田原征伐が始まる。山中城が一日で落ち、小田原城が囲まれる。氏照は兵を率いて小田原城に入る
天正18年4〜6月 前田利家・上杉景勝らの北国勢が、上野の松井田城、武蔵の鉢形城などを次々に降す。松井田城主の大道寺政繁は降って、豊臣方の道案内となる
天正18年6月22日夜 北国勢が八王子城のまわりに陣を構える。夜半から霧が立ちこめる
天正18年6月23日未明 八王子城の戦い。豊臣方が霧にまぎれて攻めこみ、根小屋・山下曲輪・御主殿・山頂の曲輪を次々に落とす。城はその日のうちに落城
天正18年7月5日 小田原城の北条氏直が降伏を申し出る
天正18年7月11日 北条氏政と氏照が切腹。氏照は51歳。氏直は高野山へ送られる

なぜ八王子城は狙われたのか ― 氏照の新しい城

北条氏照は、北条氏康の三男で、当主・氏政の弟にあたります。武蔵の西の名門・大石氏を継いで、多摩川沿いの滝山城を本拠とし、北条家の中では外交や軍事の要をになう存在でした。兄の氏政とともに、秀吉への臣従に最後まで反対した強硬派の一人だったともいわれます。

滝山城跡の碑
氏照が八王子城の前に本拠としていた滝山城の跡(筆者撮影)

永禄12年(1569)、武田信玄が小田原へ向かう途中に滝山城を囲み、城は落ちなかったものの、深くまで攻めこまれました。その後、北条家をとりまく情勢が厳しくなると、氏照はより守りの固い城を求めて、西の山深い深沢山に八王子城を築きます。甲斐から関東へ入る道をにらむ位置にあり、北条領の西の守りのかなめとなる城でした。関東の城は土を盛った土塁が中心ですが、八王子城には石を積んだ石垣が使われていたことも、発掘でわかっています。

天正18年(1590)、秀吉が20万を超える大軍で北条を攻めると、北条家は小田原城に兵を集めて守る作戦をとりました。氏照も主な家臣と兵を連れて小田原城に入ります。八王子城に残されたのは、城代の横地監物をはじめとする少ない将兵と、戦を避けて城に逃げこんだ領民たちでした。主のいない大きな山城。北から関東に攻め入った前田・上杉の北国勢にとって、ここは小田原への道を開くために落とさなければならない城でした。

兵力くらべ ― 大軍と、留守を守る3,000

八王子城の戦いの兵力(通説)

豊臣方(前田利家・上杉景勝ら)約15,000〜30,000余
八王子城(北条方、領民を含む)約3,000

城にいた約3,000のうち、戦える武士はごく一部で、多くは城に逃げこんだ農民や女性、子どもだったといわれます。豊臣方の数は史料によって大きく異なりますが、少なく見ても城の5倍以上でした。

八王子城の戦いに登場した主な武将(豊臣方)

人物 立場 この戦いでの動き
前田利家 加賀・能登・越中の大名。北国勢の中心 八王子城の正面、大手の側から攻め上がる。中の曲輪の中山家範には降伏をすすめたが、家範は応じなかったと伝わる
上杉景勝 越後の大名 城の西側から尾根伝いに攻めこみ、山頂の曲輪へ迫る。家臣の藤田信吉は水の手の沢から奇襲したといわれる
直江兼続 景勝の重臣 景勝とともに北国勢として出陣する
真田昌幸 信濃上田の大名 北国勢に加わって関東へ攻め入る。北条との争いのきっかけとなった名胡桃城は、もともと真田の城だった
大道寺政繁 北条家の重臣。松井田城主 松井田城で降ったのち豊臣方の道案内となり、八王子城攻めでも先手として戦う。小田原開城後、秀吉に切腹を命じられる
豊臣秀吉 関白。小田原城を囲む 北条方の城が降伏しても許すことが多かったが、八王子城では力攻めとなった。降伏をすぐ受け入れる利家に不満をもらしたためともいわれる

八王子城の戦いに登場した主な武将(北条方)

人物 立場 この戦いでの動き
北条氏照 八王子城主。氏政の弟 小田原城にこもっていて八王子城にはいない。城が落ちたのち、7月11日に兄の氏政とともに切腹する
横地監物(吉信) 八王子城の城代 山頂の本丸を守る。落城の際に城を抜け出したが、のちに討たれたとも、自害したともいわれる
中山家範(勘解由) 氏照の重臣 中の曲輪を守って戦い、利家の降伏のすすめを断って自害。その忠義は徳川家康にも惜しまれ、子は水戸徳川家に仕えた
狩野一庵 氏照の重臣 山頂近くの曲輪を守り、中山家範とともに最期を迎える
近藤綱秀 氏照の家臣 ふもとに近い近藤曲輪を守り、大道寺政繁らの猛攻を受けて討死
北条氏政・氏直 北条家の前当主と当主 小田原城で籠城を続けるが、八王子城の落城などで戦意を失い、7月5日に降伏する
北条氏規 氏照の弟。韮山城主 韮山城で豊臣方を防いでいたが、6月に開城。兄の氏政・氏照の切腹では介錯をつとめたと伝わる
北条氏邦 氏照の弟。鉢形城主 八王子城の戦いの少し前、前田・上杉の北国勢に鉢形城を明け渡して降る

八王子城の戦いの流れ ― 霧の夜襲から一日での落城まで

八王子城跡の案内板と案内図
八王子城跡の案内板(筆者撮影)。ふもとの根小屋・御主殿から、山頂の本丸まで曲輪が広がる

① 6月22日夜 ― 霧の中の布陣

鉢形城を降した前田・上杉の北国勢は、6月22日、八王子城のまわりに陣を構えました。前田勢は城の東の元八王子・横川のあたりに、上杉勢は城の西や南の尾根に回りこみます。その夜、城のまわりは深い霧につつまれました。霧の中では城からの鉄砲も狙いが定まりません。豊臣方は、日付が変わるころに動き出しました。

② 6月23日未明 ― 根小屋と山下曲輪の戦い

最初にぶつかったのは、ふもとの根小屋(家臣たちの屋敷が並ぶ集落)でした。午前2時ごろに始まった攻撃で根小屋は突破され、豊臣方は山すその近藤曲輪・山下曲輪へと攻め上がります。ここでは大道寺政繁の兵が先頭に立って猛攻をかけ、守っていた近藤綱秀らが討たれました。両軍の鉄砲の音は雷のようだったと伝わります。夜が明けるころ、山下曲輪は落ちました。

③ 御主殿の落城と、滝の悲劇

八王子城の曳橋
御主殿へ渡る曳橋(復元、筆者撮影)。いざというときには落とせるようになっていたともいわれる

ふもとの谷には、城主の館である御主殿がありました。城山川をはさんで、曳橋とよばれる木の橋を渡り、石段を折れ曲がりながら登った先にある広い曲輪です。発掘調査では、大きな礎石建物や、中国から渡ってきた陶磁器などが見つかっていて、氏照がここで暮らしていたことがわかっています。

八王子城の御主殿の虎口の石段
復元された御主殿の入口(虎口)の石段(筆者撮影)

豊臣方はこの御主殿にもなだれこみました。城に残っていた氏照の妻や、城に逃げこんでいた女性・子どもたちは、御主殿の脇を流れる滝に次々と身を投げたと伝わります。城山川の水は三日三晩、赤く染まったともいわれます。この話は後の時代の記録や言い伝えによるもので、どこまでが事実かはわかりません。それでも「御主殿の滝」は、八王子城の悲劇を今に伝える場所として、地元で手厚く供養されています。

八王子城の御主殿跡
御主殿跡(筆者撮影)。氏照の館があった広い曲輪で、発掘で建物の礎石が見つかっている

④ 中腹から山頂へ ― 金子曲輪・中の曲輪・本丸

夜が明けると、豊臣方は山の上を目指しました。前田勢は中腹の金子曲輪を鉄砲の撃ち合いの末に奪い、さらに山頂部の小宮曲輪・中の曲輪・本丸へと迫ります。山頂部の守りは固く、前田家の家臣にも30余人の討死が出たといわれます。

そこへ上杉家の藤田信吉が、城の裏手の水の手(沢)から攻め上がり、山頂に一番乗りしたといいます。城の中に内通する者が出て櫓に火がかけられ、守りはついに崩れました。中の曲輪の中山家範と狩野一庵は自害し、本丸の横地監物は城を抜け出しました。こうして、関東屈指の山城は、攻撃が始まってからわずか一日で落ちたのです。

八王子城の石垣
八王子城の石垣(筆者撮影)。土の城が多い関東では珍しく、石を積んだ石垣が使われている

⑤ 小田原城への知らせ

八王子城の落城は、すぐに小田原城の北条方にも伝わりました。討ち取られた将兵の首や、捕らえられた城兵の妻子が小田原城の前に運ばれ、城内の者に見せつけられたとも伝わります。主の氏照にとっては、自分の城と家臣、家族を一度に失ったことになりました。籠城を続けていた北条方の戦意は大きく揺らぎ、約2週間後の7月5日、北条氏直は降伏を申し出ます。

なぜ八王子城は一日で落ちたのか

理由 内容
主力が小田原にいた 城主の氏照と主な兵は小田原城にこもっていて、八王子城には少数の将兵と領民しかいなかった
城が大きすぎた ふもとの根小屋から山頂まで曲輪が広がる大きな城を、少ない兵で守りきるのは難しかった
霧の夜襲 深い霧の中、夜のうちに攻めこまれ、鉄砲で防ぐこともままならなかった
城の内情を知る道案内 北条家の重臣だった大道寺政繁が豊臣方につき、先手となって攻めた
裏手からの奇襲と内通 上杉家の藤田信吉が水の手から攻め上がり、城内の内通者が櫓に火をかけた

八王子城は、北条家が誇る大きな山城でした。しかし城は、守る兵がいてはじめて力を発揮します。主力を小田原に集めるという北条家の作戦は、本城を守るためには正しかったのかもしれません。その一方で、支えとなるはずの支城は、少ない兵で大軍を迎えることになりました。八王子城の落城は、その作戦の弱さがもっとも悲しい形で表れた戦いだったといえます。

八王子城の戦いのその後

人物・家 その後
北条氏照 7月11日、兄の氏政とともに小田原城下で切腹。辞世は「天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり」と伝わる
北条氏直 家康の娘婿だったこともあり命は助けられ、高野山へ送られる。翌年、大坂で病死
大道寺政繁 豊臣方の道案内として働いたが、小田原開城後、秀吉に切腹を命じられる
八王子城 落城後は使われなくなり、廃城となる。いまは国の史跡・日本100名城として、御主殿や曳橋、石垣が整備されている
関東 北条家の旧領は徳川家康に与えられ、家康は江戸に入る。八王子には、のちに八王子千人同心が置かれる

筆者のひとこと

八王子城には行ったことがあります。思っていた以上に規模が大きく、広い山全体に城が築かれていました。

御主殿へ向かう入口には、いざというときには切り落とせそうな木の橋(曳橋)が架かっていました。近くの滝山城と比べると、遺構の整備や当時の姿を伝える復元が進んでいるように感じます。関東の城は土塁が中心ですが、八王子城では部分的に石垣も見ることができました。

攻め落とすのはとても大変な城だと感じましたが、枡形虎口のように、左右から挟んで鉄砲や弓を浴びせる仕掛けは、私が歩いた範囲ではあまり目に入りませんでした。御主殿の入口には、石段が折れ曲がる虎口が復元されているそうなので、次に訪れるときは意識して見てみたいと思います。

落城のとき、御主殿の滝に多くの女性たちが身を投げたという話は、訪れたあとで知りました。そうした悲しい歴史から、いまでは心霊スポットとしても知られているようです。

それでも、遺構と雰囲気はすばらしく、ぜひ一度は訪れてほしい城です。

八王子城跡の碑
八王子城跡の碑(筆者撮影)

まとめ

八王子城の戦いは、秀吉の小田原征伐で、前田利家・上杉景勝らの大軍が北条氏照の八王子城を攻め落とした戦いです。城主の氏照は小田原城にいて留守で、城を守っていたのは少ない将兵と領民たちでした。天正18年6月23日の未明、霧にまぎれて攻めこんだ豊臣方は、根小屋から御主殿、山頂の本丸まで曲輪を次々に落とし、城はその日のうちに落ちました。御主殿の滝に女性たちが身を投げたという悲しい話も残ります。八王子城の落城は小田原城の北条方の心を折り、北条家は7月に降伏、戦国大名としての歴史を閉じました。

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