天正17年(1589)11月、上野国(群馬県)の小さな山城・名胡桃城が、北条家の家臣・猪俣邦憲に奪われました。この城は、豊臣秀吉の裁定で真田家のものと決められたばかりでした。秀吉はこれを自分の命令にそむく行為だとして北条家に宣戦を布告し、翌年の小田原攻めへとつながっていきます。たった一つの小城をめぐる事件が、関東の大大名・北条家を滅ぼすきっかけになったのです。NHK出版のドラマガイドによると、大河ドラマ『豊臣兄弟!』第46回で名胡桃城事件が描かれるとされています。この記事では、事件の背景から経過、その後までをわかりやすく整理します。
名胡桃城事件は、天正17年11月3日、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を奪った事件です。城を預かっていた鈴木主水(重則)は、偽の手紙で城の外へおびき出され、戻ったときにはすでに城は北条方の手に落ちていたといいます。主水は責任をとって自害しました。
この年の夏、秀吉は長く続いた沼田領をめぐる北条と真田の争いに裁定を下し、名胡桃城を真田のものと決めたばかりでした。秀吉はこの事件を「天下の裁定にそむいた」として、11月24日に北条家へ宣戦を布告します。翌天正18年の小田原攻めで、北条家は滅びました。
一方で、秀吉はこの事件の前から小田原攻めの準備を進めていたともいわれ、事件は秀吉にとって戦の大義名分になったという見方もあります。
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名胡桃城事件の流れ(年表)
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天正10年(1582) | 本能寺の変のあと、徳川と北条が和睦。上野の沼田は北条に渡すことになるが、真田昌幸が拒む |
| 天正13年(1585) | 沼田問題をめぐって、真田と徳川が戦う(第一次上田合戦) |
| 天正17年(1589)夏 | 秀吉の裁定。沼田領の3分の2(沼田城をふくむ)を北条に、3分の1(名胡桃城をふくむ)を真田に分ける |
| 天正17年11月3日 | 北条方の沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を奪う。城代の鈴木主水は自害 |
| 天正17年11月24日 | 秀吉が北条家に宣戦を布告する |
| 天正18年(1590) | 小田原攻め。7月に北条家が降伏し、滅びる |
事件の背景 ― 沼田をめぐる長い争い
名胡桃城事件の根っこにあるのは、上野国の沼田(群馬県沼田市)をめぐる争いです。沼田は越後・上野・信濃を結ぶ交通の要所で、真田昌幸が武田家の家臣だったころから押さえていた土地でした。
天正10年(1582)の本能寺の変のあと、甲斐・信濃・上野をめぐって徳川と北条が争い、やがて和睦します。このとき徳川と北条は、上野は北条のものとし、真田が持っていた沼田も北条に渡すと約束しました。しかし、自分の力で手に入れた沼田を渡せと言われた真田昌幸は、これを拒否します。この対立が、天正13年(1585)の第一次上田合戦にもつながりました。沼田問題については沼田問題とは?徳川と真田はなぜもめたのかでくわしく解説しています。
秀吉の裁定 ― 沼田を三つに分ける
天下をほぼ手中におさめた秀吉は、大名どうしが勝手に戦うことを禁じ、争いは秀吉が裁くという方針をとっていました(惣無事)。沼田の争いも秀吉が裁くことになり、天正17年、秀吉は沼田領のおよそ3分の2を沼田城とともに北条に、残りの3分の1を名胡桃城とともに真田に残すという裁定を下しました。名胡桃は真田家にとって先祖の墓がある大切な土地だと昌幸が主張したことが、認められたといわれます。
北条家に渡された沼田城には、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が城代として入りました。こうして、北条の沼田城と、真田の名胡桃城が、わずか数キロの距離で向き合うことになったのです。

天正17年11月3日 ― 名胡桃城、奪われる
天正17年11月3日、猪俣邦憲は名胡桃城を攻め取りました。江戸時代にまとめられた記録『加沢記』によると、名胡桃城の家臣・中山九兵衛がひそかに北条方に通じ、昌幸の印を押した偽の手紙で、城代の鈴木主水(重則)を岩櫃城へおびき出したといいます。主水が城を空けたすきに、北条の兵が城に入りました。
だまされたと気づいた主水は急いで引き返しましたが、すでに城は北条方の手に落ちていました。主水は責任をとって、沼田の正覚寺で自害したと伝えられています。ただし、城を奪った方法については、猪俣勢が少ない守り手の城を急に攻め落としたとする記録もあり、はっきりしたことはわかっていません。

秀吉の宣戦布告と、北条家の滅亡
事件の知らせを受けた秀吉は激しく怒りました。自分が下した裁定を北条家が武力で破ったのは、天下の命令にそむくことだと考えたのです。北条家の当主・北条氏直は「家臣が勝手にしたことで、北条家は知らなかった」と弁明しましたが、城を奪った猪俣邦憲は処分されないまま沼田城代にとどまりました。
秀吉は天正17年11月24日、北条家に宣戦を布告する書状を送り、諸大名にも出陣を命じます。翌天正18年(1590)、20万ともいわれる大軍が関東へ押し寄せ、7月、北条家は小田原城を開いて降伏しました。韮山城や八王子城の戦いも、この小田原攻めのなかで起こっています。

【考察】名胡桃城事件は秀吉の「わな」だったのか
ここからは筆者の考えです。名胡桃城事件については、秀吉が北条家を攻める口実をつくるために仕組んだのではないか、という見方があります。
その理由として挙げられるのは、事件より前に秀吉が小田原攻めのための大量の兵糧を用意させていたとされることや、沼田城のすぐ近くに真田の名胡桃城を残すという、いかにも争いが起きそうな裁定を下したことです。名胡桃城は沼田城を見張ることのできる場所にあり、北条から見れば目の上のたんこぶでした。
一方で、これらはあくまで状況から考えた推測で、秀吉が事件を仕組んだという確かな証拠はありません。北条家が、秀吉の裁定の重みを読みちがえたことも事実でしょう。いずれにしても、天下の秩序を守るという大義名分を手にした秀吉に対し、北条家はもはや言い逃れができなくなっていたのです。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』と名胡桃城事件
ドラマガイドによると、第46回では名胡桃城事件と、秀吉が小田原攻めを決意する場面が描かれるとされています。病が重くなっていく秀長が、兄の決断にどうかかわるのかも見どころになりそうです。
筆者が訪れた沼田城
2023年11月、名胡桃城と向き合っていた沼田城の跡(沼田公園)を訪れました。いまは公園として整備され、紅葉の季節には多くの人でにぎわいます。本丸の堀の跡や石垣の一部が残り、名胡桃城事件のあと、真田家が沼田城の城主となったことを伝える史跡も見ることができます。





北条家が滅びたあと、沼田領はすべて真田家のものとなり、昌幸の長男・真田信之(当時は信幸)が沼田城主となりました。妻の小松姫とともに、沼田の町づくりを進めています。名胡桃城をめぐる争いは、結果として真田家が沼田を手にすることで決着したのです。
まとめ
名胡桃城事件は、秀吉の裁定で真田のものと決められた名胡桃城を、北条方の猪俣邦憲が奪った事件でした。城代の鈴木主水は偽の手紙でおびき出され、自害したと伝わります。秀吉はこれを天下の裁定へのそむきとして北条家に宣戦を布告し、翌年の小田原攻めで北条家は滅びました。小さな山城をめぐる事件が、戦国時代の終わりを告げる大きな戦いの引き金となったのです。



























