毛利勝信 | 秀吉古参の家臣、豊前小倉城主

もうり かつのぶ

地域東海・九州
所属勢力・属性豊臣家
大名家毛利家(森氏)
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑母衣具足
武将タイプ勇猛・鋭利

毛利勝信(?〜1611)は尾張出身の豊臣秀吉の古参家臣で、本姓は森、初名は吉成。九州平定後に豊前の企救・田川2郡を与えられ、小倉城主となった。関ヶ原で西軍に属して改易され、土佐で没した。子は毛利勝永。

目次

秀吉の古参家臣

毛利勝信は尾張の出身で、本姓は森、初名は吉成という。号は一斎。豊臣秀吉に早くから仕えた家臣で、秀吉の親衛隊である黄母衣衆の一人とされる。

勝信を織田信長の赤母衣衆とする話もあるが、これを裏づける資料は確認できない。赤母衣衆は信長直属の精鋭で、勝信の名は一般にその一覧に見えない。

豊前小倉6万石

天正15年(1587)、秀吉は九州を平定し、豊前国を二つに分けた。企救・田川の2郡を勝信に、残る6郡を黒田孝高に与えた。勝信は小倉に入り、孝高は中津に入った。石高は6万石とされる。

勝信は小倉城を居城とし、田川郡の岩石城や香春岳城に家臣を置いた。小倉城には、秀吉が許した大名だけが使える金箔瓦が用いられていたという。一方、朝鮮出兵で領地を離れることも多かった。「毛利」の姓は、この入封の頃に名乗ったとされるが、経緯には諸説ある。

関ヶ原と土佐での晩年

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、勝信は西軍に属した。留守の小倉城は黒田孝高に奪われ、戦後に改易された。

子の勝永は、この戦いで伏見城の攻撃に加わったとされる。

勝信は子の勝永とともに、土佐の山内一豊に預けられた。慶長16年(1611)、土佐で没した。死去の月日は9月8日とする辞典と、5月とする資料がある。勝永はのち土佐を脱出し、大坂の陣で豊臣方として戦った。

ゆかりの地

  • 小倉城(福岡県北九州市小倉北区):勝信の居城。のちに細川忠興が大規模に改修
  • 香春岳城跡(福岡県香春町):勝信が家臣を置いた田川郡の城
  • 岩石城(福岡県添田町):同じく家臣を置いた城

参考にした資料

織田家

主家

織田信雄

家臣団

長谷川宗仁
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