森成利 | 織田信長の小姓(森蘭丸)。信長の側近としてあらゆる取次を行い、本能寺の変にて信長を守り激闘の末討死

もり なりとし

地域東海
所属勢力・属性織田家臣
大名家織田
家紋丸に水車
主武器太刀・小太刀
衣装・甲冑華美小姓衣装
武将タイプ「森蘭丸」・忠節

織田信長の小姓(森蘭丸)。信長の側近としてあらゆる取次を行い、本能寺の変にて信長を守り激闘の末討死。「森蘭丸」・忠節と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。

目次

森可成の三男

成利は織田家の重臣森可成の三男として生まれました。一般には「森蘭丸」の名で知られていますが、当時の記録では「乱」や「乱法師」と書かれています。

父の死

成利が幼い頃、父の可成は近江の坂本で浅井・朝倉軍と戦って討死しました。成利は兄の長可のもとで育ちました。

信長の小姓に

成利は若くして織田信長の小姓となりました。小姓は主君の身の回りの世話や取り次ぎを担う役目で、主君から特に信頼された者が選ばれました。

信長の信頼

成利は信長から深く信頼され、取り次ぎ役として重要な仕事を任されていました。信長に届く書状を取り次ぐなど、側近として働いていたことが記録からわかります。

才気あふれる逸話

成利には、信長の言いつけを先回りして気を利かせたという逸話が多く伝わっています。ただしこうした話の多くは、江戸時代以降に作られたものと考えられています。

美濃岩村城

1582年、武田家が滅びた後、成利は美濃の岩村城と5万石を与えられたとされます。小姓でありながら、城主の地位も得たのです。

本能寺の変

1582年6月2日、明智光秀の軍が京都の本能寺を襲いました。成利は信長のそばにいて、弟の坊丸・力丸とともに戦いました。

信長とともに討死

成利は本能寺で奮戦しましたが、討死しました。18歳でした。主君信長とともに命を落とした最期は、後世まで語り継がれています。

安田国継に討たれる

成利を討ったのは、明智家の安田国継(天野源右衛門)だったと伝えられます。

「蘭丸」の名

「蘭丸」という表記は、江戸時代以降の物語などで広まったものです。美しい若武者のイメージとともに、「森蘭丸」の名は広く知られるようになりました。

物語の中の蘭丸

成利は、小説やドラマ、ゲームなどで、美しく聡明な若武者として描かれることが多い人物です。その人気は、実像以上に大きなものとなっています。

森家の兄弟たち

成利の兄長可は小牧・長久手で討死し、弟の坊丸・力丸も本能寺で命を落としました。森家の兄弟の多くが、戦国の戦いの中で若くして亡くなりました。

森家を継いだ忠政

兄弟の中で生き残った末弟の忠政が森家を継ぎ、のちに美作津山の大名となりました。

墓所

成利の墓は、京都の阿弥陀寺など、信長ゆかりの寺にあるとされています。

小姓という役目

戦国時代の小姓は、単なる身の回りの世話係ではなく、主君の側近として政治にも関わる重要な役目でした。成利はその代表的な存在です。

実像と虚像

成利の実像は、史料が少ないため分からないことも多くあります。それでも、信長から深く信頼された側近だったことは、残された記録から確かめられます。

成利の評価

成利は、信長の側近として信頼を集め、本能寺で主君とともに命を落とした若武者です。「森蘭丸」の名とともに、戦国時代を代表する人気人物の一人となっています。

このイラストについて

紫の装束をまとった若者が書状を手にし、炎の見える館の中に立つ姿です。

成利は信長の小姓として取り次ぎの役目を担いました。手にした書状はその役目を、背後の炎は本能寺の変をイメージしています。若く端正な顔立ちは、18歳で信長とともに命を落とした成利の年齢を意識したものです。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

織田家

尾張守護代のうち清洲織田家に仕えた三奉行の一家、弾正忠家から出た。信長の父信秀は津島や熱田の商業の富を背景に台頭し、主家をしのぐ力を持った。

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