山口教継 | 尾張鳴海城主、織田家から今川家へ寝返る

やまぐち のりつぐ

地域尾張
所属勢力・属性織田家→今川家
大名家織田家・今川家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ智将(調略)

山口教継は戦国時代の尾張の武将である。織田信秀のもとで鳴海城(名古屋市緑区)を守ったが、信秀の死後に今川義元へ寝返った。のちに子の教吉とともに、今川方によって切腹させられたと伝わる。

目次

織田信秀に仕えた鳴海城主

鳴海城は、室町時代に足利義満の家臣の安原宗範が築いたとされる城である。東西に細長い平山城で、三河との国境に近い場所にあった。

16世紀に入ると、尾張の織田信秀がこの城を今川氏に備える前線の城とした。教継はその城主として信秀に仕えた。生年や家の起こりについては、確かな資料で確かめられない。

今川義元への寝返りと赤塚の戦い

天文21年(1552)とされる。信秀が亡くなり、子の信長が家督を継ぐと、教継は突然織田家を離れた。鳴海城ごと今川義元の味方になったのである。城はその後、子の教吉に任せたとされる。

同じ年、信長は兵を出し、赤塚で山口父子と戦った。これを赤塚の戦いという。戦いは接近戦になったが、首を取り合うことはなかったという。もとは同じ織田家中で、顔見知りどうしの戦いだったためと考えられている。勝負ははっきりつかなかった。こうした反逆があったものの、信長はこれを取り鎮めたとされる。

駿河での切腹

教継と教吉の父子は、やがて今川氏によって切腹させられたと伝わる。理由は、失った領地の責任を問われたとも、ふたたび織田方へ寝返る疑いをかけられたともいわれる。

信長が偽の書状を流し、それを信じた義元が父子を死に追いやったという話もある。このとき戸部政直も切腹したとする資料がある。時期については弘治3年(1557)とする説や、永禄3年(1560)とする説があり、はっきりしない。父子を失ったことが、のちの桶狭間の戦いでの今川方の敗因になったとも言われる。

その後の鳴海城

山口氏のあと、鳴海城には今川家譜代の岡部元信が入った。城は今川家が直接おさえる重要な拠点となり、織田と今川の最前線となった。信長は永禄2年(1559)ごろ、丸根砦や鷲津砦など五つの砦を築き、鳴海城と大高城の連絡を断とうとした。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が討たれたあとも、元信は城を守り続けた。最後は義元の首と引き換えに城を明け渡したという。その後は佐久間信盛・信栄父子が城主となり、天正18年(1590)ごろ廃城になったといわれる。いまの城跡は鳴海城跡公園となり、石碑が立っている。

ゆかりの地

  • 鳴海城跡公園(愛知県名古屋市緑区鳴海町城):教継が城主を務めた鳴海城の跡。石碑が立つ

参考にした資料

山口教継とは

山口教継は、尾張の鳴海城主で、織田信秀に仕えた武将です。

今川家への寝返り

信秀が亡くなると、教継は今川義元に通じ、鳴海城を今川方の城としました。

赤塚の戦い

天文22年(1553年)ごろ、教継の子・教吉は、信長と赤塚で戦いました。

評価

教継は、織田家と今川家の境目で主家を変え、その結果として悲しい最期を迎えた武将です。

このイラストについて

このイラストは、燃える城を背に、書状を手にした教継を描いています。

鋭い目つきと書状を持つ姿で、主家を変える決断を下した武将の緊張を表しました。

赤く燃える城は、教継が治めた鳴海の境目の争いをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

織田家

尾張守護代のうち清洲織田家に仕えた三奉行の一家、弾正忠家から出た。信長の父信秀は津島や熱田の商業の富を背景に台頭し、主家をしのぐ力を持った。

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織田信雄

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