飯沼長継 | 美濃池尻城主

いいぬま ながつぐ

地域東海
所属勢力・属性斎藤家臣→織田家臣→羽柴方
大名家織田
家紋蛇の目(家伝)
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ美濃池尻城主

美濃池尻城主。斎藤氏、のち織田信長に仕え姉川合戦などで戦功。本能寺の変後は秀吉に属したが、天正11年に信孝との内通を疑われ処刑されたとされる。

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美濃池尻城主の飯沼氏

飯沼長継は美濃の武将で、通称を勘平という。父は飯沼対馬守長就で、美濃守護土岐頼芸の家臣として不破・安八両郡に所領を持ったとされる。

長就は天文年間(1532〜1555)ごろ、池尻城(現在の岐阜県大垣市池尻町)を築いたと伝わる。長継はこの城を継いだ。池尻城は土岐・斎藤両氏の時代、越前朝倉氏や近江浅井氏に備える拠点だった。

織田信長のもとでの戦い

長継ははじめ斎藤氏に仕え、のちに織田信長に属した。元亀元年(1570)の姉川合戦や堅田の戦いで戦功を立てたとされる。長島一向一揆や越前一向一揆の攻撃にも従ったと伝わる。

姉川合戦は元亀元年6月、織田・徳川連合軍が近江の姉川で浅井・朝倉軍と戦ったものである。堅田の戦いは同年11月、近江の琵琶湖岸の堅田で織田方と朝倉・一向一揆方が衝突した戦いで、織田方の坂井政尚が討死した。長継はこうした信長の近江・越前方面の戦いに加わっていた。

背が高く目が大きかったため、信長の命で蛇の目紋を用いたという逸話がある。これは家に伝わる話であり、同時代史料での確認はできていない。

本能寺の変後と最期

本能寺の変の後、長継は羽柴秀吉側について織田信孝と対立したとされる。天正11年(1583)には秀吉から太刀と黄金を与えられたという。

織田信孝は信長の三男で、岐阜城を本拠とした。天正11年、秀吉と柴田勝家の対立の中で勝家方についたが、勝家が敗れると岐阜城を開き、尾張で自害した。長継は信孝の家臣として最期を共にしたのではない。

しかし同年、信孝に内通したと疑われ、大垣城で処刑されたとされる。子の長資(勘平)は織田秀信に仕え、慶長5年(1600)の米野の戦いで池田長能と戦って討死した。その墓は岐阜県岐南町に残る。

ゆかりの地

  • 池尻城跡(岐阜県大垣市):父長就が築き長継が継いだとされる居城
  • 飯沼勘平長資の墓(岐阜県岐南町):子の長資の墓。米野の戦いで討死

参考にした資料

織田家

主家

織田信雄

家臣団

長谷川宗仁
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