はちや よりたか
| 地域 | 東海・北陸 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田・豊臣系 |
| 大名家 | 織田 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒具足 |
| 武将タイプ | 剛毅・古参 |
蜂屋頼隆は美濃出身の織田家臣。織田信長の馬廻りとして黒母衣衆に選ばれ、近江肥田城主、和泉岸和田城主を務めた。本能寺の変の後は豊臣秀吉に従い、越前敦賀5万石を領して「敦賀侍従」と呼ばれた。跡継ぎがなく、死後に家は絶えた。
信長の馬廻りから黒母衣衆へ
蜂屋頼隆は美濃(岐阜県)の人である。蜂屋氏は土岐氏の一族で、美濃国加茂郡蜂屋村の土豪とされる。ただし頼隆自身の出自ははっきりしない。天正17年(1589年)に56歳で没したとされ、逆算すると1534年生まれとなる。
早くから織田信長に仕え、永禄年間に選ばれた黒母衣衆に名を連ねた。黒母衣衆は信長の馬廻り(親衛隊)から選抜された精鋭である。1568年の上洛にも従った。黒母衣衆は赤母衣衆と並ぶ集団で、使番(伝令)や親衛の役を担った。天文21年(1552年)の赤塚の戦いに加わったとする記録もある。
織田家の諸戦線を転戦
頼隆は信長の主要な合戦の多くに加わった。小谷城攻め、越前朝倉攻め、長島一向一揆攻め、石山合戦、雑賀攻め、甲州征伐などである。近江では肥田城(彦根市)の城主となり、天正5年(1577年)には織田信忠の宿舎に城を提供した。
天正6年(1578年)に荒木村重が背くと、有岡城の戦いに加わった。信長の命で、荒木方の武将の妻子を尼崎で処刑したと記録される。天正9年(1581年)ごろには和泉の岸和田城に移った。天正10年(1582年)の四国攻めの準備中に本能寺の変が起きた。
秀吉のもとで敦賀城主に
変の後は豊臣秀吉に従い、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに加わった。賤ヶ岳の後、和泉から越前敦賀へ移され、5万石を領した。その後も小牧の役、富山の役、九州の役に従軍した。
天正13年(1585年)には従四位下・侍従に叙任され、羽柴姓を与えられた。「羽柴敦賀侍従」と称したのはこのためである。天正16年(1588年)には豊臣姓も与えられた。
家の断絶と敦賀のその後
天正17年(1589年)9月25日に没した。跡継ぎがなく、家は絶えた。丹羽長秀の四男・直政を養子に迎えていたが、頼隆より先に死去している。敦賀の領地は豊臣秀勝を経て、大谷吉継に与えられた。
ゆかりの地
- 敦賀城跡(敦賀市):頼隆が5万石で入った城。のちに大谷吉継の居城となる
- 岸和田城(岸和田市):天正9年ごろから頼隆が城主を務めたとされる
- 肥田城跡(彦根市):織田家臣時代の頼隆の居城







































