まつい むねのぶ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 今川家臣 |
| 大名家 | 今川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・悲壮 |
松井宗信は今川氏の家臣で、遠江二俣城の城主。今川氏輝・義元・氏真に仕え、三河の田原城攻めで今川義元から感状を受けたと伝わる。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで本陣の前方に布陣し、義元とともに討死した。
二俣城主・松井氏
松井宗信は永正12年(1515)の生まれとされる。遠江の国衆(在地の武士)松井氏の出身で、父は松井貞宗と伝わる。享禄2年(1529)に家督と二俣城を継いだとされる。
二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点にあった城である(静岡県浜松市天竜区)。遠江北部から信濃へ通じる道を押さえる要地であった。今川時代には、松井氏が天竜川を見下ろす小山に城を築いたとも伝わるが、確かな史料はない。
今川義元の下での戦功
宗信は今川氏輝・義元・氏真に仕えたとされる。駿府に詰める在番衆も務めた。
この頃の今川氏は三河へ勢力を広げ、尾張の織田氏と争っていた。天文16年(1547)、宗信は三河の田原城攻めで天野景泰とともに戦功を上げ、義元から感状(戦功を認める文書)を受けたと伝わる。永禄2年(1559)には、父の知行や代官職を生前に譲られたとされる。
今川氏は駿河・遠江を本国とし、義元の代に三河も支配下に置いた。遠江の国衆は今川氏の軍事力の中核で、松井氏もその一つとして三河や尾張方面の戦いに動員された。
桶狭間での討死
永禄3年(1560)5月、義元は大軍を率いて尾張へ進んだ。宗信は本陣の前方に配置されたとされる。5月19日、織田信長の攻撃で本陣は崩れ、義元は討たれた。宗信も同じ戦いで討死した。享年は46と伝わる。
愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地には、七石表と呼ばれる碑があり、その二号碑が宗信の戦死地を示す。宗信の墓碑もあり、明治9年(1876)に義元の墓碑とともに建てられた。
家督は子の宗恒が継いだ。宗恒は同じ年の12月、今川氏真から遺領の相続を認められている。
二俣城はその後、徳川家康と武田信玄が争う舞台となる。元亀3年(1572)には武田軍の攻撃で落城した。
ゆかりの地
- 桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市):宗信の戦死地を示す碑と墓碑がある。国指定史跡。
- 二俣城跡(静岡県浜松市天竜区):松井氏が城主を務めた城。


























