七里頼周 | 本願寺から加賀へ派遣された加賀一向一揆の最高司令官(七里三河守)。加賀国を実質支配し織田軍(柴田勝家)と死闘

しちり よりちか

地域北陸
所属勢力・属性本願寺・加賀一揆
大名家本願寺
家紋丸に三ツ柏
主武器太刀・数珠
衣装・甲冑僧威重厚具足
武将タイプ「加賀一揆の首領」・苛烈

本願寺から加賀へ派遣された加賀一向一揆の最高司令官(七里三河守)。加賀国を実質支配し織田軍(柴田勝家)と死闘。「加賀一揆の首領」・苛烈と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。

目次

本願寺の坊官

頼周は、大坂の石山本願寺に仕えた坊官です。

坊官とは

坊官は、本願寺の法主に仕え、寺の政治や軍事を担った人々です。各地の門徒たちをまとめる役目も果たしました。

加賀へ派遣される

頼周は、本願寺から加賀に送られ、加賀の一向一揆を指揮しました。

百姓の持ちたる国

加賀は、1488年に一向一揆が守護の富樫家を倒して以来、一揆が治める「百姓の持ちたる国」と呼ばれていました。

石山合戦

1570年から、本願寺は織田信長と戦いました。各地の一向一揆も、信長と戦うことになりました。

越前の一向一揆

1574年、越前で一向一揆が起こり、信長の支配を倒して越前を一揆の国としました。頼周は、この越前の一向一揆にも深く関わりました。

越前の支配

本願寺は、下間頼照らを越前に送り、越前を治めようとしました。頼周も、その支配に加わりました。

門徒たちとの対立

しかし、本願寺から送られた坊官たちの支配は厳しく、越前の門徒たちとの間に対立が生まれたとされます。

信長の越前攻め

1575年、信長は大軍で越前に攻め込みました。

一揆の崩壊

門徒たちの間の対立もあって、越前の一向一揆はまとまりを欠き、信長の軍に大敗しました。多くの門徒が命を落としました。

頼周のその後

越前の一向一揆が崩れた後の頼周の運命については、詳しいことがはっきりしていません。

加賀の一向一揆の終わり

加賀の一向一揆も、その後信長の家臣の柴田勝家に攻められ、1580年ごろに終わりを迎えました。

宗教と戦国

一向一揆は、宗教の結びつきによって大名にも対抗できる力を持った、戦国時代の大きな勢力でした。

僧と武

頼周は、僧でありながら、一揆の軍を率いて戦う立場にありました。

下間頼照

越前の一向一揆の支配のために本願寺から送られた下間頼照は、越前の守護のような立場で越前を治めようとしました。

吉崎御坊

越前の吉崎には、本願寺の蓮如が拠点とした吉崎御坊があり、北陸の一向宗の広がりの出発点となりました。

北陸の一向宗

北陸では、加賀・越前・越中に一向宗の門徒が多く、一向一揆は大名にも劣らない大きな力を持っていました。

頼周の評価

頼周は、本願寺の坊官として加賀・越前の一向一揆を指揮し、信長と戦った人物です。その歩みは、一向一揆が北陸で大きな力を持った時代を物語っています。

このイラストについて

僧形の武将が甲冑をまとい、炎に包まれた寺のような建物を背にした姿です。

僧形に甲冑をまとった姿は、本願寺の坊官として一向一揆の軍を率いた頼周をイメージしています。炎に包まれた建物は、信長の越前攻めで崩れていった一向一揆の戦いを表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

本願寺

浄土真宗本願寺派の本山。蓮如の布教によって門徒が大きく増え、戦国時代には大坂の石山本願寺を拠点に、各地の門徒による一向一揆を動かす一大勢力となった。

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