はが たかつぐ
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 下野宇都宮家臣 |
| 大名家 | 下野宇都宮 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 宇都宮宿老・実務 |
芳賀高継は下野宇都宮氏の重臣芳賀氏の当主である。芳賀高定の跡を継ぎ、天正5年(1577)に真岡城を築いたとされる。宇都宮広綱・国綱の二代を補佐し、のち国綱の弟高武を養子に迎えて家督を譲った。天正20年(1592)に没した。
目次
芳賀氏と宇都宮氏
芳賀氏は下野国芳賀郡(栃木県東部)を本拠とした武士団である。清原氏の流れと称し、益子氏とともに「紀清両党」と呼ばれて宇都宮氏の軍事力を支えた。戦国時代には宇都宮氏の重臣として、周辺勢力や家中の反抗勢力との戦いで主家を助けた。
16世紀半ばの芳賀氏では内紛が続いた。高継の父は芳賀高経とされる。高経は天文10年(1541)に宇都宮尚綱と対立して敗死し、兄の高照も弘治元年(1555)に芳賀高定に追われて自害したという。高継はのちに高定の跡を継ぎ、芳賀氏の当主となった。
真岡城主として
高継は天正5年(1577)に真岡城(栃木県真岡市)を築き、城主になったとされる。宇都宮広綱、その子国綱の二代を補佐した。
当時の宇都宮氏は、関東南部から勢力を伸ばす小田原の北条氏の圧迫を受けていた。これに対し、常陸の佐竹氏と結んで対抗した。高継と国綱の関係や、北条氏・佐竹氏に対する高継の姿勢については、資料によって見方が分かれる。家中の争いのなかで益子氏を攻めたともいわれる。
隠退と芳賀氏のその後
高継は国綱の弟高武を養子とし、家督を譲って隠退した。天正20年(1592)に没した。没日は3月5日説と6月13日説がある。別名を高規という。
天正18年(1590)、国綱は豊臣秀吉から所領を安堵され、芳賀氏もその領内に所領を与えられた。しかし慶長2年(1597)に宇都宮氏が改易されると、芳賀氏も没落した。
ゆかりの地
- 真岡城跡(栃木県真岡市):高継が築いたとされる城



















