後藤又兵衛 | 黒田二十四騎の筆頭格として活躍後流浪。大坂の陣にて豊臣方として真田幸村と並び勇名を馳す

後藤又兵衛

ごとう またべえ

地域近畿・九州
所属勢力・属性黒田・豊臣系
大名家黒田
家紋丸に三つ星
主武器大槍
衣装・甲冑黒漆塗具足
武将タイプ「後藤又兵衛」・槍の極致
目次

後藤又兵衛とは

戦国乱世の終幕を飾った数多の武将のなかでも、いったん仕えた主家を離れ、浪人の身に落ちてなお一個の武人としての意地を最後まで貫き通し、大坂の陣で壮烈な討ち死にを遂げた男として、後藤基次、すなわち通称を後藤又兵衛という勇将の名は、とりわけ鮮烈な光をまとって今日まで語り継がれてきた。

黒田孝高、官兵衛の名で知られる希代の軍師にその器量を見いだされ、その子黒田長政の代には黒田家中で武功第一と称されながらも、後年は主君と深く袂を分かって流浪の旅に身を投じ、最期は豊臣方の一将として散るという、まことに起伏に富んだ劇的な生涯をこの武人は歩んだのである。

播磨に生まれた武門の子

後藤又兵衛基次は、永禄3年(1560年)ごろ、播磨国の姫路近郊に、後藤新左衛門を父として生を受けたと伝えられ、その家はもともと播磨に根を張る名族別所氏に連なり、のちに小寺政職に仕える由緒ある武門であったといわれている。戦国の習いとして父を早くに失った又兵衛は、幼いころから武辺に秀でた資質を周囲に見せていたと語られ、乱世に生まれ落ちた一人の少年が、やがて西国屈指の猛将へと成長していく素地は、この播磨の風土のなかで静かに育まれていったのである。

黒田孝高との運命の縁

幼くして父を亡くした又兵衛は、同じく小寺氏に仕えていた黒田孝高、すなわち後の官兵衛のもとに引き取られて養育されたと伝わり、この主従の縁こそが、彼の波瀾に満ちた生涯の確かな出発点となったのであった。黒田孝高は稀代の智将であると同時に人を見る目に長けた人物であり、幼い又兵衛のうちに秘められた武人としての大きな器量を早くから見抜いて薫陶を加えたといわれ、両者のあいだには単なる主従を超えた、父子にも似た深い情愛が通っていたと後世に語り継がれている。

有岡城事件と一度目の追放

天正6年(1578年)、黒田孝高が織田信長に叛いた荒木村重を翻意させようとして有岡城に赴き、かえって長く幽閉されるという事件が起こると、黒田家中は主君の生死をめぐって大きく動揺し、若き又兵衛の身の上にも思わぬ試練が降りかかることとなった。このとき又兵衛は伯父にあたる藤岡九兵衛に従い、黒田家に対する誓紙への署名を拒んだために家中から追放されたと伝えられ、一時は仙石秀久のもとに身を寄せるなど、後年の流浪をあらかじめ暗示するかのような不遇の日々を、彼は若くしてすでに味わっていたのである。

黒田家への帰参

黒田孝高が奇跡的に有岡城の幽閉から救い出されて黒田家が再び勢いを取り戻すと、追放されていた又兵衛にも帰参の道がひらかれ、天正14年(1586年)ごろ、重臣栗山善助利安の与力という立場で、彼はふたたび黒田家の陣列に加わったと伝えられている。一度は家を離れながらも再び迎え入れられたこの経緯は、又兵衛の武辺の腕がそれほどまでに惜しまれた証しであると同時に、彼の剛直で妥協を知らぬ気性が早くも表れた出来事でもあり、後年の出奔へとつながる伏線を、静かにこの時期にはらんでいたといえよう。

九州平定での働き

黒田家が豊臣秀吉の九州平定に従軍すると、又兵衛はその先陣に立って島津勢を相手に幾多の戦場を駆け、若き日から鍛え上げた槍働きをもって次々と武功を挙げ、黒田家中においてその名をにわかに高からしめていったのである。主家の当主である黒田長政よりもいくらか年長であった又兵衛は、戦場においては頼もしい兄のごとき存在として若い主君を支え、九州の各地を転戦するなかで、両者のあいだには一時、まことに強い信頼の絆が結ばれていたと伝えられている。

朝鮮出兵での奮戦

豊臣秀吉が二度にわたって朝鮮へ大軍を送った文禄・慶長の役において、黒田長政に従って海を渡った又兵衛は、慣れぬ異国の地での過酷な攻防戦のただなかで、持ち前の豪胆さと武辺の腕を存分に発揮して奮戦を重ねたと記録されている。敵城への攻撃においても、味方が苦戦する危地においても、又兵衛はつねに先頭に立って槍を振るい、その勇猛ぶりは味方の兵たちを大いに鼓舞したと伝わり、朝鮮の戦場は、彼を西国に轟く猛将たらしめた重要な鍛錬の場ともなったのである。

黒田八虎筆頭としての武名

幾多の戦功を積み重ねた又兵衛は、やがて黒田家を代表する精鋭を選りすぐった黒田二十四騎、さらにその中核をなす黒田八虎の筆頭格に数えられるまでにその武名を高め、家中における武功第一の勇将として、余人の追随を許さぬ地位を確立していった。智謀をもって黒田家を支えた黒田孝高が知の柱であったとすれば、又兵衛はまさしく武の柱であり、戦場でその姿を見ただけで味方の士気が沸き立ち、敵兵が恐れをなしたと語られるほど、彼の存在そのものが黒田軍団の大きな力の源泉となっていたのである。

槍一筋の名手

数ある武芸のなかでも、又兵衛はとりわけ槍の名手として世に鳴り響いた武将であり、間合いを見切る鋭い眼と、一撃で敵を貫く豪快な突きは、当代並ぶ者なしと称され、その槍働きは後世まで語り草として長く伝えられることとなった。戦場において彼が槍を構えれば、屈強な敵の武者もたじろいで道をあけたと伝えられ、まさに槍一筋に己の武を磨き上げ、その一本の槍に武人としての誇りと生き様のすべてを託した点にこそ、後藤又兵衛という男の真骨頂があったといえるのである。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、黒田長政は徳川家康率いる東軍に与し、又兵衛もまた主君に従って、西軍を相手にした激烈な合戦のただなかへとその身を投じることとなった。この決戦において黒田長政は、敵将小早川秀秋の寝返りを工作するなど水面下でも大きく貢献したが、戦場の最前線では又兵衛が例のごとく槍を振るって奮戦し、東軍の勝利、ひいては徳川家康による天下掌握の礎を、武人としての働きをもって確かに支えたのである。

大隈城主としての栄達

関ヶ原の功によって黒田長政が筑前一国およそ五十二万石を与えられ、福岡藩を開いてその初代藩主となると、長年の武功に報いるかたちで、又兵衛には要衝の大隈城、すなわち益富城が任され、一万数千石を領する重臣としての栄達がもたらされた。浪々の身から身を起こし、いまや一城の主として黒田家の西の守りを託されるに至ったこの時期こそ、後藤又兵衛の生涯における栄光の頂点であり、彼の武人としての歩みが、まさに功成り名遂げたかに見えた束の間の輝かしい季節であったといえよう。

黒田長政との不和

ところが、栄華の頂にあった又兵衛と主君黒田長政との関係は、次第に冷え込んで深刻な不和へと傾いていったと伝えられ、その原因については、長政の専横や側近の讒言、あるいは又兵衛自身の剛直に過ぎる気性など、諸説が入り交じって語られている。又兵衛が近隣の大名である細川忠興と親しく交わったことが、独立の気配を疑う長政の神経をいたく逆撫でしたともいわれ、かつて戦場をともに駆けた兄と弟のごとき二人の間に生じた深い溝は、もはや容易には埋めがたいところにまで達していたのである。

黒田家からの出奔

慶長9年(1604年)、二人を長く仲立ちしてきた黒田孝高がこの世を去ると、両者を結んでいた最後の重石が外れ、翌々年、又兵衛はついに妻子を伴って筑前を密かに立ち退き、住み慣れた黒田家をみずから出奔するという重大な決断に踏み切った。一城の主としての安泰な地位も、家中随一と謳われた名誉も、あえてすべてを投げ捨てて自由の身を選んだこの出奔は、武人としての己の誇りを何よりも重んじた又兵衛の、いかにも剛毅な生き様を鮮烈に物語る出来事として、後世に強い印象を残している。

奉公構と浪人の苦難

黒田家を去った又兵衛を待っていたのは、決して穏やかな自由の日々ではなく、彼の武名を惜しむと同時にその出奔を許さぬ黒田長政が、他家への仕官を執拗に妨げる奉公構という厳しい措置を発したため、彼の再就職の道はことごとく閉ざされていった。名将としてその腕を欲する大名は少なくなく、又兵衛は一時、播磨姫路の池田輝政のもとに身を寄せたものの、そこにも長政の強い抗議が及んで長くとどまることは叶わず、かつての西国屈指の猛将は、名だたる武名とはうらはらに、浪々の身の苦難を長く味わうこととなった。

雌伏の日々

仕官の道を閉ざされた又兵衛は、京や近隣の地を転々としながら、わずかな伝手を頼りに雌伏の歳月を送ったと伝えられ、かつて一城の主として万余の石高を食んだ身にとって、その暮らしはまことに厳しく、屈辱に満ちたものであったにちがいない。それでも彼は武人としての矜持を決して失わず、いつの日か再び戦場に立ち、天下にその武を示す時が来ることを心の奥深くに期しつづけたと語られ、逆境のなかで折れることのなかったその強靭な精神こそが、後の英雄的な最期を用意することとなったのである。

大坂の陣への招聘

慶長19年(1614年)、徳川家康と豊臣家との対立がついに武力衝突へと発展し、大坂冬の陣の火蓋が切られると、豊臣方は諸国に散った名だたる浪人の武将たちを競って招き入れ、その白羽の矢は、当代随一の猛将と謳われた又兵衛のもとにも当然のように立った。長く仕官を阻まれ、雌伏を強いられてきた又兵衛にとって、これはまさに武人として最後にその名を天下に示す千載一遇の好機であり、彼は招きに応じて意気揚々と大坂城へ入城し、豊臣秀吉ゆかりのこの巨城を、みずからの死に場所と定めたのであった。

大坂五人衆として

大坂城に馳せ参じた又兵衛は、真田信繁、すなわち幸村の名で知られる智将や、勇猛をもって鳴らした毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登らとともに、後に大坂五人衆と称される豊臣方の中核をなす武将の一人として、城方の作戦の要を担うこととなった。なかでも又兵衛の武名はひときわ高く、その堂々たる戦いぶりは味方の兵から摩利支天の再来とまで讃えられたと伝えられ、寄せ集めと侮られがちであった浪人衆に、彼ら歴戦の勇将たちの存在が、いかに大きな戦意と誇りをもたらしたかがうかがえるのである。

冬の陣での奮戦

大坂冬の陣において、又兵衛は真田信繁らとともに徳川方の大軍を相手に城を固く守り、要所要所で敵の攻勢をよく食い止め、天下にその武名がなお衰えていないことを、幾多の戦場を経てきた老練の勇将らしく堂々と示してみせたのである。しかし戦いは、豊臣方の抵抗を持て余した徳川家康の巧みな謀略によって和議へと持ち込まれ、その条件のもとで大坂城の外堀のみならず内堀までもが埋め立てられてしまい、難攻不落を誇った巨城は、翌年の決戦を前にして、その堅固な守りをむざむざと奪われる結果となった。

夏の陣と幻の夜襲策

和議が破れて慶長20年(1615年)に大坂夏の陣が始まると、堀を失って裸城同然となった大坂城に籠もって受け身に回るのを潔しとせず、又兵衛は敵の大軍が結集する前に、機先を制して打って出る積極果敢な野戦の策を、諸将を前にして強く献じたと伝えられている。一説には、彼は夜陰に乗じた奇襲によって徳川方の出鼻を挫くべしと説いたともいわれるが、指揮系統の乱れた城内でその大胆な献策は容れられず、又兵衛はやむなく与えられた持ち場で戦うほかなく、時を逸したまま最後の決戦の日を迎えることとなった。

道明寺の戦い

夏の陣における又兵衛の最後の戦場は、大和路から攻め寄せる徳川方を迎え撃つべく設けられた道明寺の地であり、彼はおよそ二千八百の手勢を率いて夜半に大坂城を発し、夜明け前に定められた要衝へといち早く到着して、敵の進撃を阻む役目を担った。ところが、ともに戦うはずの味方の後続部隊は濃い霧と行軍の遅れによってまるで姿を現さず、目指した国分の地には、すでに水野勝成をはじめとする徳川方の大軍が着陣しており、又兵衛はわずかな兵とともに、圧倒的な数の敵勢と孤立無援のまま対峙することとなった。

小松山の激闘

味方の到着を待つ余裕のない絶体絶命の状況を冷静に見て取った又兵衛は、道明寺と国分のあいだにそびえる小松山に陣を布き、高所の地の利を巧みに生かして、押し寄せる徳川方の大軍を相手に、寡兵をもって幾度となく壮絶な迎撃を繰り返したのである。前線に立った松倉重政や奥田忠次らの部隊を打ち破り、なかでも敵将奥田忠次を討ち取るほどの奮戦を見せたが、やがて水野勝成の来援に加え、伊達政宗が率いる強力な鉄砲隊までもが加わって、包囲する敵の数は又兵衛の手勢の実に十倍にも膨れ上がっていった。

壮絶な討死

数え切れぬほどの敵に幾重にも囲まれながらも、又兵衛は槍を振るってなお何度となく敵の攻め手を跳ね返したが、やがて伊達政宗の重臣である片倉重長の指揮する鉄砲隊の激しい銃撃を全身に浴び、ついに深手を負って身動きが取れなくなったと伝えられている。おおよそ八時間にも及ぶ死闘の末、又兵衛は慶長20年(1615年)5月6日、五十六歳でその波瀾の生涯を閉じたとされ、一説には、敵に首を渡すまいとして自ら壮絶な最期を選んだとも語り継がれ、主家を離れてなお武士の意地を貫いたその死は、多くの人々の胸を強く打った。

英雄として語り継がれた又兵衛

又兵衛が小松山で時を稼いだのちに、遅れて毛利勝永の部隊が、さらに真田信繁の部隊が戦場へ駆けつけ、豊臣方はかろうじて総崩れを免れたと伝えられ、彼の壮烈な奮戦は、味方の全軍を救うべく捨て身で敵を引き受けた献身の戦いとして、後世に高く讃えられている。主家を離れた浪人の身でありながら、最後まで一個の武人として堂々と戦い抜いて散ったその生き様は、武士の意地と誇りを体現した鑑として、江戸の世に数多の講談や軍記物のなかで英雄的に脚色され、後藤又兵衛の名を、庶民に親しまれる不朽の物語へと昇華させたのである。

生き延びたという伝説

後藤又兵衛の壮絶な最期は多くの人々の胸を打ったがゆえに、彼は実は道明寺で死なず、ひそかに戦場を落ち延びて生き延びたのだという生存の伝説が、後世に各地で語られるようになった。九州の各地や大和の山里など、又兵衛が名を変えて余生を送ったと伝える土地は数多く残されており、こうした伝説が広く生まれたこと自体が、人々が彼の死を惜しみ、その武勇を敬愛していたことの何よりの証しといえよう。

敗者となった英雄がひそかに生き延びたと願う判官びいきの心情は、源義経の伝説などにも通じるものであり、又兵衛の生存伝説もまた、庶民の抱いた哀惜と憧れが生み出した、もう一つの物語であったと理解することができる。

後世に残る又兵衛の面影

後藤又兵衛の名は、江戸の講談や歌舞伎、軍記物のなかで繰り返し取り上げられ、豪快で情に厚い武人として脚色されて庶民に広く親しまれ、彼の勇名は史実の枠を越えて大きくふくらんでいった。近代以降も又兵衛は小説や映像作品のなかで、主家を離れてなお己の信念を貫いた不屈の武将として描かれ続け、その反骨と意地の生き様は、時代を越えて多くの人々の共感を呼び起こしてきたのである。

一本の槍に己の誇りを託し、栄達を捨ててまで自由を選び、最後は捨て身の奮戦に散った後藤又兵衛の物語は、戦国の終わりを彩る英雄譚として、今なお色あせることなく人々の心に生き続けている。

後藤又兵衛という人物

後藤又兵衛の生涯を貫いていたのは、権勢や俸禄よりも武人としての己の誇りを何よりも重んじる、一途で妥協を知らぬ剛直な生き方であり、黒田孝高に見いだされて栄達を極めながら、あえてそのすべてを捨てて自由と意地を選んだ点にこそ、彼の人となりが色濃くにじんでいる。黒田長政との不和と出奔、奉公構による長い雌伏、そして大坂の陣での華々しい討死という起伏に富んだ足跡は、時代の大きな転換のなかで己の信念に殉じた一人の武人の姿を鮮やかに映し出し、後藤又兵衛の名は、戦国の終焉を飾る屈指の名将として、今なお色褪せることなく語り継がれている。

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