武田信繁 | 信玄の弟「典厩」。家訓九十九か条を残し、第四次川中島の戦いで兄の身代わりのように討死した名副将

武田信繁のイラスト(イメージ)

たけだ のぶしげ

地域甲信越(甲斐)
所属勢力・属性武田氏(信玄の弟)
大名家武田家
家紋武田菱
主武器槍
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ名副将

武田信繁(たけだ のぶしげ)は、武田信玄の弟で、兄を支えた武将である。官途名の左馬助を中国風に言った「典厩(てんきゅう)」の名で知られる。大永5年(1525年)に生まれ、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで討死した。息子のために書いた家訓が残り、武田家中で理想の武将としてたたえられた。

3行でわかる武田信繁
  • 父・武田信虎にかわいがられたが、兄・信玄の当主就任を支えた
  • 武田家の副将として、信玄の戦いの多くに加わった
  • 第四次川中島の戦いで上杉謙信の軍と戦って討死した
目次

兄・信玄を支えた弟

父の武田信虎は、兄の晴信(のちの信玄)よりも弟の信繁をかわいがり、跡継ぎにしようとしたとも伝わる。しかし天文10年(1541年)、晴信が父を駿河へ追放して当主になると、信繁は兄に従い、その片腕となった。

信繁は信玄の名代として軍をひきいることも多く、信濃の攻略で活躍した。家中からの信頼もあつく、兄弟が争うことのなかった武田家の結束を象徴する存在だった。

武田信繁家訓

永禄元年(1558年)、信繁は息子の信豊のために、武士としての心がまえを99か条にまとめた家訓を書いた。「主君に逆らってはならない」「戦場では臆病であってはならない」などの教えが、中国の古典の言葉を引きながら記されている。

この家訓は江戸時代の武士にも広く読まれ、信繁は「まことの武将」として尊敬された。

第四次川中島の戦い

永禄4年(1561年)9月、信玄と上杉謙信は川中島(長野市)でぶつかった。武田方の別動隊が妻女山の上杉軍を攻めるあいだに、上杉軍は山を下りて八幡原の武田本隊をおそった。

本隊が苦しい戦いをしいられるなか、信繁は兄の本陣を守って奮戦し、討死した。山本勘助や諸角虎定もこの戦いで亡くなっている。信玄は弟の死を深く悲しんだと伝わる。

武田信繁をめぐる人物

  • 父:武田信虎
  • 兄:武田信玄
  • 子:武田信豊
  • 川中島で戦った相手:上杉謙信

ゆかりの地

  • 典厩寺(長野市篠ノ井):信繁の墓がある寺
  • 八幡原史跡公園(川中島古戦場)(長野市小島田町):第四次川中島の戦いの戦場
  • 躑躅ヶ崎館跡(武田神社)(山梨県甲府市):武田家の本拠
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