戦国の暗殺・暗殺未遂事件一覧|ドラマの「秀長暗殺」は史実にあったのか ― 守山崩れ・永禄の変・宇喜多直家、家康の祖父と父の死【豊臣兄弟!第41回】

夜の武家屋敷の廊下で、放たれた矢から主客をかばおうとする武将のイメージイラスト

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、上洛した徳川家康が、秀長の屋敷で秀長の命をねらうという緊迫の場面が描かれました。秀長は放たれた矢をみずから身で受け、家康は殺意まで打ち明けたうえで思いとどまります。では、戦国時代に暗殺や暗殺未遂は実際にどれくらいあったのでしょうか。この記事では、戦国の主な暗殺・暗殺未遂事件を一覧にして、ドラマの「秀長暗殺」が史実にあったのかを整理します。

先に答え

上洛した家康が秀長の命をねらったという話は、確かな記録では確かめられません。ドラマならではの創作と考えてよいでしょう。

ただし戦国時代には、家康の祖父・松平清康が家臣に斬られた「守山崩れ」、将軍・足利義輝が襲われた「永禄の変」、宇喜多直家による暗殺など、身内や家臣、客として招いた相手による暗殺が実際に何度も起きています。

家康自身も、祖父と父を家臣の刃で失ったとされる家に生まれました。上洛のときに徳川の家臣たちが家康の身を強く心配したのには、そうした背景もあったのです。

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目次

暗殺・暗殺未遂にかかわった武将たち

戦国の主な暗殺・暗殺未遂事件一覧

年事件ねらわれた人実行・首謀結果
天文4年(1535)守山崩れ松平清康(家康の祖父)家臣の阿部正豊清康は25歳で死去。松平家は大きく傾く
天文18年(1549)松平広忠の死松平広忠(家康の父)家臣の岩松八弥とする説広忠は24歳で死去(病死説もある)
天文20年(1551)大寧寺の変大内義隆重臣の陶晴賢義隆は自害。大内家は事実上滅亡へ
弘治元年(1555)斎藤義龍の弟殺し斎藤孫四郎・喜平次兄の斎藤義龍弟二人を討ち、父・道三と戦って勝つ
弘治3年(1557)ごろ織田信勝の謀殺織田信勝(信長の弟)兄の織田信長病と偽った信長に清須城へ呼ばれ、討たれた
永禄8年(1565)永禄の変将軍・足利義輝三好義継・松永久通ら義輝は御所で戦って討死
永禄9年(1566)三村家親の狙撃三村家親宇喜多直家(遠藤兄弟に鉄砲で狙わせる)家親は陣中で射殺される
元亀元年(1570)千草峠の狙撃織田信長杉谷善住坊弾はかすっただけで信長は無事。善住坊はのちに処刑
天正14年(1586)『豊臣兄弟!』の秀長暗殺豊臣秀長(ドラマでは家康)確かな記録はなく、ドラマの創作と考えられる

家康の家は、暗殺に苦しんだ家だった

家康の祖父・松平清康は、天文4年(1535)、尾張の守山に出陣していたところを、家臣の阿部正豊に斬られて亡くなりました。25歳の若さでした。これを「守山崩れ」といいます。父・松平広忠も、天文18年(1549)に24歳で亡くなっており、家臣に刺されたとする説が伝わっています。

家康は、祖父と父をともに若くして失い、幼いころから今川家や織田家の人質として過ごしました。上洛のとき、徳川の家臣たちが家康の身の安全を強く心配し、岡崎で本多作左衛門が大政所の宿所に薪を積ませたのも、主君が討たれることへの恐れを、家として身にしみて知っていたからかもしれません。

将軍さえ討たれた ― 永禄の変

永禄8年(1565)、室町幕府13代将軍・足利義輝は、京の御所を三好義継や松永久通らの軍勢に囲まれ、みずから刀をとって戦った末に討死しました。剣の達人として知られた義輝の最期は、のちに「何本もの刀を畳に突き立てて戦った」という逸話とともに語られます。将軍でさえ命をねらわれる、それが戦国時代でした。

暗殺で国を手に入れた宇喜多直家

備前の宇喜多直家は、謀略や暗殺を重ねて勢力を広げたことで知られます。永禄9年(1566)には、敵対する備中の三村家親を、鉄砲の名手に命じて陣中で射殺させました。鉄砲による暗殺の、早い例の一つとされます。直家は、のちに豊臣政権の五大老となる宇喜多秀家の父です(秀吉の養子・猶子一覧)。

信長も、ねらわれ、ねらった

織田信長は、家督を争った弟の織田信勝を、病気と偽って清須城に呼び寄せ、討ち取らせたと伝わります。一方で信長自身も、元亀元年(1570)に近江の千草峠で杉谷善住坊に鉄砲でねらわれました。弾は体をかすっただけで、信長は命拾いしています。

【考察】なぜドラマは「秀長暗殺」を描いたのか

ここからは筆者の考えです。家康が秀長をねらったという記録はありません。それでもドラマがこの場面を描いたのは、戦国の上洛が、それだけ命がけのものだったことを伝えたかったからではないでしょうか。相手の本拠に入ることは、いつ討たれてもおかしくない危険と隣り合わせでした。家康の祖父や父の死を思えば、家康が「先に討たなければ討たれる」と考えても不思議ではありません。

そのなかで、矢を身で受けてまで家康と向き合った秀長の姿は、暗殺がくり返された戦国の世を「話し合い」で終わらせようとする豊臣政権の姿勢を象徴していたように思えます。史料にもとづく検証は、姉妹サイトの家康は本当に秀長を暗殺しようとしたのか(日本の歴史ガイド)でくわしく解説しています。第41回の内容は第41回「家康の野望」あらすじと振り返りもどうぞ。

まとめ

上洛した家康が秀長の命をねらったという話は、確かな記録にはなく、ドラマの創作と考えられます。しかし戦国時代には、守山崩れ、大寧寺の変、永禄の変、宇喜多直家の暗殺など、家臣や身内、客として招いた相手による暗殺が実際にくり返されていました。家康自身も、祖父と父を家臣の刃で失ったとされる家に生まれています。ドラマの「秀長暗殺」は、そうした戦国の危うさを背景にした場面だったのです。

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