唐人親広 | 富山城を襲った越中小出城の国人

とうじん ちかひろ

地域北陸
所属勢力・属性越中新川郡の国人(のち上杉家臣)
大名家上杉
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ武骨・地侍

越中国新川郡の小出城(現在の富山市)を拠点とした国人。上杉と織田の間で所属を変え、天正10年には小島職鎮らとともに富山城を襲って神保長住を幽閉した。晩年は上杉景勝に仕え、直江兼続の配下に属したとされる。

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越中新川郡の国人・唐人氏

唐人親広(とうじん ちかひろ)は戦国時代の越中国の武将である。唐人氏は新川郡小出(現在の富山市水橋小出)の小出城を拠点とした国人とされる。姓から渡来系の出自を想定する説や、伊勢長島の出身とする推論もあるが、確かなことはわからない。

当時の越中東部では、松倉城の椎名氏と富山城の神保氏が争い、越後の上杉氏と一向一揆がこれに介入していた。唐人氏は神保氏に属したとする見方と、椎名氏に仕えたとする見方がある。小出城は両勢力の境に近く、たびたび争奪の対象になった。

上杉と織田の間で

元亀3年(1572)の尻垂坂の戦いでは、富山城の攻撃に加わったとされる。天正元年(1573)に上杉謙信が富山城を落とすと、親広は上杉方に従った。天正4年(1576)には能登の甲山城の守将を務めたとされる。

天正6年(1578)に謙信が死去すると、越中の国人の多くが織田方に転じた。親広も寺崎盛永・石黒成綱らと同じく織田方に付いたとされる。

富山城襲撃と晩年

天正10年(1582)、親広は小島職鎮らとともに富山城を襲い、織田方の城主神保長住を幽閉した。上杉方への返り忠(再度の寝返り)である。しかし柴田勝家らの軍勢に包囲され、城を明け渡して退いた。本能寺の変の後にも、再び富山城を攻めたとされる。

その後は上杉景勝に仕え、直江兼続の配下に属した。天正12年(1584)には上杉軍の越中侵攻で境城攻略の先鋒を務めたとされる。岸和田流の砲術師としても知られ、『私伝之集』を著して上杉家の砲術指南役になったと伝わる。越後国能生で死去したとされ、慶長5年(1600)以前の死とみられる。

ゆかりの地

  • 小出城跡(富山市):唐人氏の拠点とされる平城。水橋小出に所在した。
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