ほり ひでまさ
| 地域 | 東海(美濃) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田氏→豊臣氏 |
| 大名家 | 堀氏 |
| 家紋 | 釘抜 |
| 主武器 | 槍・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆の具足 |
| 武将タイプ | 万能の側近 |
堀秀政(ほり ひでまさ)は、美濃出身の武将で、織田信長の側近として取り立てられ、のちに豊臣秀吉の重臣となった。天文22年(1553年)に生まれ、戦も政務も何をさせても上手にこなすことから「名人久太郎」と呼ばれた。越前北ノ庄の大名となったが、天正18年(1590年)、小田原征伐の陣中で38歳で病死した。
3行でわかる堀秀政
- 美濃の出身。若くして信長の側近となり、奉行や取り次ぎで活躍した
- 本能寺の変のあと秀吉に従い、山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いで働いた。小牧・長久手の戦いでは徳川軍を押し返した
- 越前北ノ庄の大名となったが、小田原征伐の陣中で病死した
目次
信長の側近として
秀政は10代で信長に仕え、側近として奉行や取り次ぎを務めた。安土での政務や、各地の武将とのやりとりにかかわり、天正9年(1581年)ごろには近江の長浜あたりを与えられたとされる。
秀吉のもとでの活躍
天正10年(1582年)、本能寺の変のとき秀政は中国攻めの秀吉のもとにいた。そのまま秀吉に従って明智光秀と戦った山崎の戦いに加わり、翌年の賤ヶ岳の戦いでも働いた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、三河へ攻め入った羽柴方が長久手で大敗するなか、秀政の隊は追ってきた徳川軍を押し返して退いたとされる(「小牧・長久手の戦いをわかりやすく解説」参照)。その後、越前北ノ庄(今の福井市)を与えられ、大名となった。
小田原の陣中での死
天正18年(1590年)の小田原征伐にも出陣したが、陣中で病にかかり、38歳で亡くなった。秀吉からの信頼が厚く、長生きしていればさらに大きな大名になっていたと惜しまれる人物である。子の秀治は越後に移され、堀家は江戸時代まで大名として続いた。
堀秀政をめぐる人物
ゆかりの地
- 北ノ庄城跡(柴田神社)(福井県福井市):秀政が城主となった北ノ庄城の跡
- 長久手古戦場(愛知県長久手市):小牧・長久手の戦いの舞台










































