聚楽第 ― 天下人・豊臣秀吉の栄華と後陽成天皇の行幸

聚楽第

関白の位に就いた豊臣秀吉は、その権威を天下に示すため、京の都に壮麗きわまる邸宅兼政庁を築いた。「聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)」である。金色に輝くその建物に、秀吉は天皇までも迎え入れた。天下人の栄華が絶頂に達したこの時代の象徴・聚楽第の物語をたどる。

目次

聚楽第とは何か

聚楽第は、天正十四年(1586)から翌年にかけて、豊臣秀吉が京都に築いた壮大な邸宅であり、同時に政務を執る政庁でもあった。関白となった秀吉は、朝廷のある京において、天下人としてふさわしい拠点を必要とした。堀と石垣をめぐらせ、天守のような櫓を備えたその姿は、城郭と貴族の邸宅とをあわせ持つ、他に類を見ない壮麗な建築であった。

黄金と絢爛の意匠

聚楽第は、その名が「楽しみを聚(あつ)める邸」を意味するとおり、贅を尽くした華麗な造りで知られた。屋根瓦には金箔が施され、内部は名だたる絵師による豪華な障壁画で飾られたと伝えられる。金色に輝く聚楽第は、天下の富を一身に集めた秀吉の権勢を、目に見えるかたちで人々に示すものであった。桃山文化の絢爛たる美が、ここに結晶していた。

後陽成天皇の行幸

天正十六年(1588)、秀吉はこの聚楽第に後陽成天皇の行幸(ぎょうこう)を仰いだ。天皇がみずから足を運ぶ行幸は、この上ない栄誉である。数日にわたって催された盛大なもてなしは、秀吉が天皇を敬い仕える立場にありながら、その天皇を迎えるほどの権威を持つことを、天下に印象づけた。関白・秀吉の権勢が絶頂に達した瞬間であった。

諸大名の忠誠の誓い

天皇の行幸に際して、秀吉は徳川家康をはじめとする諸大名を聚楽第に集め、天皇と秀吉への忠誠を誓う起請文(きしょうもん)を提出させた。これによって、秀吉に従う大名たちの序列と結束が、天皇の権威のもとに公然と確認された。聚楽第は、単なる豪華な邸宅ではなく、秀吉が天下の支配を固めるための政治の舞台でもあったのである。

聚楽第のその後

秀吉は後にこの聚楽第を、関白の位とともに甥の豊臣秀次に譲った。しかし文禄四年(1595)、秀次が謀反の疑いをかけられて自害する秀次事件が起こると、聚楽第は秀吉の命によって徹底的に破却されてしまった。栄華の象徴はわずか十年ほどで姿を消したのである。その建物の一部は各地の寺社に移築されて残ったと伝えられ、絢爛たる桃山の栄華の名残を今にとどめている。

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