あたぎ ふゆやす
| 地域 | 近畿・四国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 三好氏・淡路安宅氏 |
| 大名家 | 三好氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・水軍旗 |
| 衣装・甲冑 | 水軍具足 |
| 武将タイプ | 武将・歌人 |
安宅冬康は三好長慶の弟である。淡路の水軍を率いる安宅氏を継ぎ、淡路を拠点に三好政権を支えた。和歌や連歌に優れ、『安宅冬康句集』が残る。永禄7年、長慶の居城の河内飯盛城で兄長慶に殺害された。
目次
安宅氏の継承
安宅冬康は享禄元年(1528)生まれとされる。父は三好元長で、三好長慶・三好実休(義賢)・十河一存は兄弟である。
安宅氏は淡路の水軍を率いる一族であった。淡路は大阪湾の入口にあり、畿内と阿波を結ぶ海の要所である。長慶は冬康に安宅氏の家名を継がせ、淡路を治めさせた。冬康は由良城などを拠点とし、淡路の水軍を三好氏の軍事力に組み込んだ。
三好政権を支えた兄弟
長慶は畿内を押さえて政権を築いた。実休は阿波、一存は讃岐と和泉、冬康は淡路を担い、兄弟で四国と畿内を結ぶ体制を支えた。冬康は和泉の岸和田城主でもあったとされる。
冬康の水軍は、阿波・淡路の兵を畿内へ送る際に重要な役割を担った。
永禄5年(1562)、三好氏は畠山高政・根来衆らと和泉の久米田で戦い、実休が討死した。三好氏は同年の教興寺の戦いで畠山方を破り、畿内の支配を立て直した。
歌人としての冬康
冬康は和歌や書に優れ、連歌の句集『安宅冬康句集』が残る。三好氏の一族は連歌を好み、長慶の周りでは連歌会がたびたび開かれた。冬康もその一員であった。
冬康は温和な人柄で、長慶をいさめたという逸話も伝わるが、後世の軍記物に基づく話である。
兄長慶による殺害
永禄4年(1561)に一存、永禄5年に実休が没し、永禄6年には長慶の嫡男義興も没した。三好家の中心人物が相次いで失われた。
永禄7年(1564)5月9日、冬康は長慶の居城である河内飯盛城に呼ばれ、殺害された。37歳であった。松永久秀の讒言(告げ口)によるとする説が古くからあるが、久秀の関与を疑う見方もある。長慶は同年7月に没した。
ゆかりの地
- 由良城跡(洲本市):冬康が淡路支配の拠点とした城
- 飯盛城跡(大東市・四條畷市):冬康が殺害された長慶の居城































