うじいえ みつうじ
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 最上家臣 |
| 大名家 | 最上氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 「氏家行広」・名家老 |
最上氏の重臣。成沢道忠の子で、嫡子を失った氏家守棟の家督を継いだとされる。最上義光の娘を妻とし、宿老として重んじられた。慶長出羽合戦では最上方として上杉軍と戦い、義光の没後は国政を担ったとされる。
出自と氏家家の継承
氏家光氏(うじいえ みつうじ)は最上氏の家臣・成沢道忠の子とされ、初名は成沢光氏と伝わる。成沢道忠は最上氏の重臣・氏家守棟の従兄弟にあたるという。
氏家守棟は最上義光の側近として外交や謀略を担った重臣である。守棟の嫡子・光棟が戦死したため、光氏が守棟の家督を継いだとされる。守棟は天正末から文禄年間(1590年代前半)に没したとみられる。光氏も守棟と同じ尾張守を称したため、史料上で両者が混同されることがある。
最上家の宿老として
光氏は義光の娘を妻に迎え、宿老として1万8千石を与えられたとされる。宿老は家中の最上位の重臣を指す。八沼城攻めでは光氏の働きで戦局が変わったという話も伝わるが、軍記・家伝の類によるとみられる。
慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、上杉景勝の軍勢が最上領に攻め入り、直江兼続が長谷堂城(現・山形市)を包囲した。光氏はこの戦いで最上方として上杉軍と戦ったとされる。
義光の没後と最上家の改易
慶長19年(1614)に義光が没すると、最上家では家親・義俊の代に家中の対立が深まった。光氏は国政を担い、家中の統制にあたったとされる。
元和8年(1622)、最上家は家中騒動を理由に改易された。光氏はその後、他家に預けられたとされ、子孫が長州藩士として続いたとする説がある。
ゆかりの地
- 長谷堂城跡(山形市):慶長出羽合戦の主戦場
参考にした資料
氏家氏
氏家氏は、出羽の最上家に仕えた重臣の家です。最上家の家臣団の中で、宿老として大きな役割を果たしました。
最上義光
義光は、最上家の当主として出羽の山形を中心に勢力を広げた大名です。関ヶ原ののちは、出羽の五十七万石を治める大大名となりました。
長谷堂城の戦い
慶長5年(1600年)、上杉家の直江兼続の大軍が最上領に攻め込み、長谷堂城を囲みました。最上家は城を守り抜き、上杉軍は撤退しました。
最上家の改易
義光の死後、最上家では家督をめぐる争いが起き、元和8年(1622年)に改易されました。
最上義光歴史館
山形市には最上義光歴史館があり、最上家ゆかりの品々が展示されています。
出羽の紅花
最上家が治めた出羽の村山地方は、のちに紅花の産地として知られるようになりました。
評価
光氏は、最上家の宿老・氏家氏を継ぎ、最上家の全盛から改易までを見届けた人物です。
このイラストについて
このイラストは、雪の野と煙の上がる戦場を背に立つ光氏を描いています。
赤と金の模様の入った衣と扇を手にした姿で、最上家を支えた宿老の家の当主らしさを表しました。
雪に覆われた山々と馬の列は、出羽の冬の戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
室町幕府の管領家・斯波氏の流れをくむ家で、出羽の羽州探題を称した。最上義光は父義守との対立を乗り越えて家督を継ぎ、天童氏・寒河江氏・大宝寺氏など周辺の勢力を次々に降して、山形を中心に出羽の村山・最上地方をまとめあげた。
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