真冬の北アルプスを越えた「さらさら越え」で知られる佐々成政。織田信長の親衛隊「黒母衣衆」に選ばれ、柴田勝家のもとで北陸を戦い、越中一国の主にまでなった武将です。しかし秀吉とは最後まで反りが合わず、肥後の国主となったわずか1年後、一揆の責任を問われて切腹しました。尾張の小さな城の三男に生まれ、兄たちを戦で失って家を継いだ成政の生涯を、年代順にわかりやすく解説します。
佐々成政は尾張・比良城(名古屋市西区)の佐々家の三男です。二人の兄が稲生の戦いと桶狭間の戦いで相次いで討ち死にしたため、家を継ぎました。信長の黒母衣衆に選ばれ、長篠の戦いでは鉄砲隊を指揮しています。
その後は柴田勝家の与力として北陸を転戦し、天正9年(1581)ごろ越中・富山城の主となりました。本能寺の変のあとは勝家、ついで家康・織田信雄の側について秀吉と対立し、天正13年(1585)に降伏します。天正15年に肥後一国を与えられますが、国人一揆を招き、翌天正16年閏5月、摂津尼崎で切腹しました。
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佐々成政の生涯 年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天文5年(1536)ごろ | 尾張・比良城の佐々成宗の子として生まれる(生年は諸説あり) |
| 弘治2年(1556) | 兄・孫介が稲生の戦いで討ち死に |
| 永禄3年(1560) | 兄・政次が桶狭間の戦いで討ち死に。成政が家を継ぎ比良城主となる |
| 永禄4年(1561) | 美濃の森部の戦いで、池田恒興とともに敵将を討ち取る |
| 永禄10年(1567)ごろ | 信長の親衛隊・黒母衣衆に選ばれる |
| 元亀元年(1570) | 八相山の退き口で殿(しんがり)をつとめる |
| 天正2年(1574) | 長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う |
| 天正3年(1575) | 長篠の戦いで鉄砲隊を指揮。秋に越前府中を与えられ「府中三人衆」となる |
| 天正9年(1581)ごろ | 越中に入り、富山城を本拠とする |
| 天正10年(1582) | 魚津城を攻め落とした直後に本能寺の変 |
| 天正11年(1583) | 賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れる。剃髪して秀吉に降伏し、越中を安堵される |
| 天正12年(1584) | 小牧・長久手の戦いで家康方につき、末森城を攻めるが前田利家に敗れる。冬に「さらさら越え」 |
| 天正13年(1585) | 秀吉が10万の大軍で越中へ(富山の役)。降伏し、大坂へ移る |
| 天正15年(1587) | 九州征伐に従い、肥後一国を与えられる。7月、肥後国人一揆 |
| 天正16年(1588)閏5月14日 | 摂津尼崎の法園寺で切腹 |
幼少期 ― 尾張・比良城の三男として

成政は、尾張国春日井郡の比良(いまの名古屋市西区)に城を構えた佐々成宗の子として生まれました。生まれた年ははっきりせず、天文5年(1536)説、天文8年(1539)説などがあります。亡くなったときの年齢は53歳とする説が有力です。
佐々家は、比良の周辺に根を張る小さな土豪でした。成政は男兄弟の三番目で、上に兄の政次と孫介がいました。本来なら家を継ぐ立場ではありませんでしたが、二人の兄の死が、成政の運命を大きく変えることになります。
二人の兄を失う ― 稲生の戦いと桶狭間
佐々家は早くから織田信長に仕えていました。弘治2年(1556)、信長が弟の織田信勝と家督を争った稲生の戦いで、次兄の孫介が討ち死にします。29歳だったと伝わります。
さらに永禄3年(1560)、今川義元の大軍が尾張に攻め込んだ桶狭間の戦いでは、長兄の政次が討ち死にしました。政次は千秋季忠らとともに今川の先鋒に打ちかかり、命を落としたといわれます。信長が義元を討ち取る直前のことでした。
二人の兄を相次いで失ったことで、成政は佐々家を継ぎ、比良城主となりました。20代半ばの若き当主の誕生です。
黒母衣衆として ― 信長の親衛隊に
家を継いだ成政は、美濃攻めで手柄を重ねていきます。永禄4年(1561)の森部の戦いでは、池田恒興とともに斎藤方の武将を討ち取ったと伝わります。
やがて成政は、信長の親衛隊ともいえる「黒母衣衆(くろほろしゅう)」に選ばれました。母衣(ほろ)とは、背中に負う大きな布の袋のことで、馬で駆けると風をはらんでふくらみ、遠くからでも目立ちます。信長は、馬廻りの若者のなかからとくに優れた者を選び、黒と赤の母衣を背負わせました。赤母衣衆には前田利家がいます。成政と利家は、ともに信長の近くで育ったライバルでした。成政は黒母衣衆の筆頭だったともいわれますが、河尻秀隆を筆頭とする記録もあります。
信長のもとでの活躍 ― 八相山の殿と長篠の鉄砲隊
八相山の退き口(1570年)
元亀元年(1570)、信長は浅井長政を攻めた帰り道、浅井勢の追撃を受けました。このとき成政は、簗田広正・中条家忠らとともに殿(しんがり)をつとめ、鉄砲を使って追っ手を防いだと伝わります。退却戦のしんがりは、もっとも危険で、もっとも信頼された者に任される役目でした。この年には姉川の戦いも起きています。
長島で長男を失う(1574年)
天正2年(1574)、信長は伊勢の長島一向一揆を攻め滅ぼします。この戦いで成政は、長男の松千代丸を失いました。兄に続き、わが子まで戦で失ったことになります。
長篠の戦いの鉄砲隊(1575年)
天正3年(1575)の長篠の戦いでは、前田利家らとともに鉄砲隊の指揮をまかされました。馬防柵の内側から武田の騎馬隊を迎え撃った、あの鉄砲隊です。八相山でも鉄砲を使った成政は、信長から鉄砲の扱いに長けた武将として信頼されていたことがうかがえます。
府中三人衆 ― 柴田勝家の与力として北陸へ
長篠の戦いの年の秋、信長は越前の一向一揆を平定し、越前一国の大部分を柴田勝家に与えました。このとき成政は、前田利家・不破光治とともに越前府中(福井県越前市)の2郡を与えられます。三人は「府中三人衆」と呼ばれ、成政は小丸城を居城としました。
府中三人衆は、勝家の「与力」でした。与力とは、大将の指揮下で戦う武将のことです。ただし三人は信長から直接領地をもらっており、勝家の家臣ではありません。信長は、勝家の力が大きくなりすぎないよう、三人に見張り役も兼ねさせたといわれます。
以後、成政は勝家とともに北陸方面の戦いを続けます。天正5年(1577)には、上杉謙信との手取川の戦いにも加わりました。
越中の国主へ ― 富山城と佐々堤
天正8年(1580)ごろから、成政は越中(富山県)の攻略に関わるようになります。越中では、もとの守護代・神保長職の子である神保長住が織田方として戦っていましたが、上杉方の勢力が強く、思うように進みませんでした。成政はこの長住を助け、越中の平定を進めます。
天正9年(1581)、成政は富山城に入り、越中の武将たちを指揮下に置きました。翌年には神保長住が失脚し、成政が越中一国を治める立場になります。成政は富山城を大きく改修し、たびたび洪水を起こしていた常願寺川には堤防を築きました。この堤は今も「佐々堤」と呼ばれ、成政の名を伝えています。この時期が、成政の生涯でもっとも勢いのあったころといえます。
本能寺の変 ― 魚津城の陣で動けず
天正10年(1582)6月、柴田勝家の率いる北陸の織田軍は、上杉方の魚津城(富山県魚津市)を3か月にわたって攻め、ついに落としました。ところがその直後、京で本能寺の変が起きたという知らせが届きます。
勝家たちは急いで兵を引きましたが、越中を守る成政は、反撃してくる上杉軍を食い止めなければならず、動くことができませんでした。その間に、羽柴秀吉が中国大返しで明智光秀を討ち、織田家の主導権を握っていきます。成政にとって、この「動けなかった」ことが、のちの運命を分けることになりました。
賤ヶ岳の戦い ― 勝家の敗北と剃髪
清須会議のあと、勝家と秀吉の対立が深まります。成政は勝家の側に立ちました。養子に迎えていた佐久間勝之は、勝家の甥・佐久間盛政の弟でもあります。
しかし天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、成政は上杉への備えのため越中を離れられず、叔父に兵600ほどを預けて送るのが精一杯でした。勝家が敗れて北ノ庄城で自害すると、成政は娘を人質に差し出し、頭を丸めて秀吉に降伏します。秀吉は成政を許し、越中一国の支配を認めました。
小牧・長久手の戦い ― 末森城で利家に敗れる
天正12年(1584)、秀吉と、徳川家康・織田信雄の連合軍との間で小牧・長久手の戦いが起こります。成政は家康・信雄の側につき、ふたたび秀吉に背きました。
9月、成政は大軍を率いて、前田利家の領地である能登の末森城(石川県宝達志水町)を囲みます。城を守る奥村永福らは必死に耐え、そこへ利家が金沢から駆けつけて成政の軍を背後から襲いました。成政は敗れて兵を引きます。かつて信長のもとで黒母衣と赤母衣を競った二人は、ここで敵同士として戦ったのです。くわしくは秀吉と佐々成政の戦いをわかりやすく解説で紹介しています。
さらさら越え ― 真冬の北アルプスを越えて

同じ年の11月、家康と信雄は秀吉と和睦してしまいます。秀吉と戦う大義名分を失った成政は、家康に戦いを続けるよう直接説得するため、真冬の北アルプスを越えて浜松へ向かったと伝わります。これが「さらさら越え」です。
越中から信濃へ抜けるには、立山連峰の峠を越えなければなりません。雪に閉ざされた冬の山越えは、命がけの行軍でした。成政は家康と面会しましたが、家康の考えは変わらず、成政は手ぶらで越中へ戻ることになります。
ただし、さらさら越えがどの峠を通ったのか(ザラ峠か針ノ木峠か)、本当に真冬だったのかなどは、はっきりしていません。後世の軍記物で話がふくらんだ部分もあるとされています。それでも「冬の北アルプスを越えた男」の話は、成政の不屈さを伝える逸話として語り継がれてきました。
富山の役 ― 10万の大軍に降伏
天正13年(1585)8月、秀吉は自ら10万ともいわれる大軍を率いて越中に攻め込みました(富山の役)。成政はわずかな兵でこれに立ち向かうことはできず、織田信雄の取りなしで降伏します。
成政は命を助けられましたが、越中の大部分を取り上げられ、残されたのは新川郡だけでした。富山城は壊され、成政は妻子とともに大坂へ移されます。その後は秀吉の「御伽衆(おとぎしゅう)」として、秀吉の話し相手をつとめました。かつての敵を手元に置き、話し相手とするのは、秀吉がよく使ったやり方です。
肥後の国主へ ― そして国人一揆
天正15年(1587)、成政は秀吉の九州征伐に従い、その功によって肥後一国(熊本県)を与えられました。羽柴の名字も許され、ふたたび一国の主に返り咲いたのです。
ところが肥後には、50人を超える国人(土地に根を張った武士)がいて、それぞれ秀吉から領地を認められていました。成政は肥後に入るとすぐ、国人たちに土地の広さや収穫を書き出して届けさせる検地(差出検地)を命じます。これに反発した隈部親永が7月に兵を挙げ、一揆は肥後全体に広がりました。成政ひとりでは鎮められず、秀吉は九州・四国の大名を動員して、ようやく年末にこれを鎮めます。一揆の流れは肥後国人一揆をわかりやすく解説でくわしく紹介しています。
尼崎での最期
天正16年(1588)、成政は一揆を起こした責任をわびるため大坂へ向かいました。しかし秀吉は面会を許さず、成政は摂津の尼崎で謹慎させられます。そして閏5月14日、秀吉の命により、尼崎の法園寺で切腹しました。
辞世として伝わる歌には、自分の身体を托鉢の僧が持つ「鉄鉢袋」にたとえ、それを打ち破って旅立つという、悟りにも似た心境が詠まれています。法園寺には成政の墓があり、平成10年(1998)には辞世の碑も建てられました。
家族と伝説 ― 黒百合と、徳川将軍家につながる血筋
成政には、長島で亡くなった長男の松千代丸のほか、娘たちがいました。賤ヶ岳のあとに秀吉へ人質として差し出したのも娘の一人です。成政の娘の血筋からは、のちに三代将軍・徳川家光の正室となる鷹司孝子が出ています。成政は孝子の外祖父にあたるとされます。
成政には「黒百合伝説」と呼ばれる話も残っています。成政がかわいがった側室・早百合が、不義を疑われて殺され、「立山に黒百合が咲いたら佐々家は滅びる」と言い残したというものです。また、成政が北政所(寧々)に立山の黒百合を贈ったところ、淀殿にそれ以上の黒百合を見せられて恥をかき、それが成政への恨みにつながったという話もあります。どちらも後世の伝承で、事実かどうかはわかっていません。
【考察】成政はなぜ秀吉と合わなかったのか
成政は信長の黒母衣衆という、いわば「信長のエリート」の出身です。一方、秀吉は足軽から成り上がった人物でした。成政にとって秀吉は、かつて同じ信長のもとで働いた同僚であり、主君と仰ぐことに抵抗があったのかもしれません。
また、成政は本能寺の変のとき越中で上杉軍と向き合っていて、主導権争いに加わることができませんでした。動けないまま時代が動き、気づけば秀吉が天下を握っていた。成政が勝家、家康、信雄と、つねに秀吉の反対側に立ち続けたのは、その悔しさの表れだったとも考えられます。
そんな成政に、秀吉は最後に肥後という難しい国を与えました。国人の多い肥後を治めきれなかった成政は、責任を問われて命を落とします。成政を肥後に送ったこと自体が、秀吉の計算だったと見る人もいます。ただし、それを裏づける確かな史料はなく、あくまで一つの見方です。
まとめ
佐々成政は、二人の兄の死によって家を継ぎ、信長の黒母衣衆、府中三人衆、越中の国主と、実力で出世を重ねた武将でした。しかし本能寺の変のあとは、勝家・家康・信雄とつねに秀吉と対立する側に立ち、二度の降伏を経て、最後は肥後国人一揆の責任を負って切腹します。真冬の北アルプスを越えたさらさら越えの逸話は、最後まで秀吉に屈しなかった成政の生き方そのものといえるでしょう。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回では、白洲迅さんが演じる成政が、肥後の一揆に直面する場面が描かれる見込みです。












































