手取川の戦いをわかりやすく解説|上杉謙信と織田軍の唯一の激突 — 秀吉の無断撤退と「はねる謙信」

夜、上杉軍に追われて増水した手取川を渡る織田軍のイラスト

天正5年(1577年)、北陸で上杉謙信と織田信長の軍勢がぶつかりました。織田軍を率いたのは柴田勝家。ところが、出陣の途中で羽柴秀吉が勝家と言い争い、勝手に軍を引き上げてしまいます。残った織田軍は加賀の手取川で謙信に追撃され、大きな損害を出しました。これが手取川の戦い(てどりがわのたたかい)です。謙信と信長の軍が直接ぶつかった、ほとんど唯一の戦いとして知られています。この記事では、戦いの流れと、秀吉の「無断撤退」、そして戦いの規模をめぐる近年の見方を、わかりやすく解説します。

手取川の戦いの基本データ

いつ 天正5年(1577年)9月23日
どこ 加賀国の手取川(石川県白山市・川北町のあたり)
誰と誰 上杉謙信 対 織田軍(総大将・柴田勝家。滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政ら)
兵力 織田方は数万といわれる。上杉方は七尾城を落とした直後の軍勢で、こちらも数万(諸説あり)
結果 上杉方の勝利。退く織田軍を追撃し、手取川を渡りきれない兵が多く出たと伝わる
この後 謙信は翌天正6年(1578年)3月に急死。上杉家は跡継ぎ争い(御館の乱)で揺れ、北陸は織田方が押し返していく
目次

手取川の戦いを3行でいうと

  • 謙信が能登の七尾城を攻め、織田信長は七尾城を助けるため柴田勝家を総大将とする大軍を送った
  • 途中で秀吉が勝家と対立して無断で帰り、勝家らが手取川を渡ったときには七尾城はすでに落ちていた
  • 慌てて退く織田軍を謙信が追撃し、増水した手取川で多くの兵が失われたと伝わる

なぜ戦いが起きたのか — 信長包囲網と能登・七尾城

謙信と信長は、はじめは友好関係にありました。しかし、信長が北陸へ勢力を広げ、謙信が足利義昭や石山本願寺と手を結んで「信長包囲網」に加わると、両者は敵どうしになります。

謙信は天正4年(1576年)から、能登(石川県北部)の七尾城を攻めていました。七尾城は畠山氏の居城で、山の上に築かれた堅固な城です。城内では、重臣の長続連(ちょう つぐつら)が織田家と結ぼうとし、遊佐続光・温井景隆らは上杉に通じようとして、意見が割れていました。続連は信長に助けを求め、信長は柴田勝家を総大将とする大軍を北陸へ送ります。

秀吉の無断撤退

陣中でひげの総大将と言い争い、背を向けて陣を出ていく武将のイラスト
北陸への出陣中、秀吉は総大将の柴田勝家と言い争い、無断で軍を引き上げたと伝わる(イラスト)

織田軍には、勝家のほか、滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政、そして羽柴秀吉が加わっていました。しかし秀吉は、作戦をめぐって勝家と激しく言い争い、勝家の許しを得ないまま、自分の軍勢を連れて近江の長浜へ帰ってしまいます。

信長はこれに激怒したと『信長公記』に記されています。勝手に戦場を離れるのは、主君の命令にそむく大きな罪です。秀吉は謹慎し、その後、中国地方の攻略を任されることで汚名を返上していきました。

秀吉が引き上げた理由ははっきりしません。勝家と仲が悪かったから、とも、作戦に反対だったから、ともいわれます。もし秀吉が残っていたら手取川の戦いはどうなっていたのか、想像をかき立てられる出来事です。

七尾城の落城と、手取川の追撃

天正5年9月15日、七尾城では遊佐続光らが上杉方に内応し、長続連とその一族を討って城を明け渡しました。七尾城は、謙信の手に落ちたのです。

ところが勝家らは、そのことを知らないまま、加賀の手取川を渡って北へ進んでいました。七尾城の落城を知ったときには、すでに謙信の大軍が近くまで迫っていました。勝家は慌てて退却を決めます。

「謙信逃ぐるとぶ長」— 手取川の夜戦

夜、上杉軍に追われて増水した手取川を渡る織田軍のイラスト
七尾城の落城を知って退く織田軍を、謙信が追撃した。織田軍は増水した手取川で大きな損害を出したと伝わる(イラスト)

9月23日の夜、謙信は退く織田軍に追撃をかけました。雨で水かさの増した手取川を、夜の闇の中で渡らなければならなかった織田軍は混乱し、多くの兵が討たれたり、川で流されたりしたと伝わります。

このとき、こんな落首(風刺の歌)がはやったといわれます。

上杉に 逢うては織田も 名取川 はねる謙信 逃ぐるとぶ長(信長)

「名取川」は「手取川」に「名を取られる(評判を落とす)」をかけたもの、「とぶ長」は信長の名前をもじった言葉です。謙信の強さと、織田軍のあわてぶりを笑った歌です。

本当に「大勝利」だったのか

ただし、手取川の戦いの様子を詳しく記した当時の史料は多くありません。謙信が手紙の中で「織田軍を千人あまり討ち取り、残りは川に追い落とした」と書いているのが主な記録で、『信長公記』には手取川での大きな戦いの記事が見えません。そのため、実際は大規模な合戦ではなく、退く織田軍への追撃戦だったのではないか、とする見方もあります。

その後 — 謙信の急死と、北陸の逆転

手取川の勝利で、謙信は能登と加賀の北部を手に入れ、さらに上洛して信長と対決するつもりだったともいわれます。しかし翌天正6年(1578年)3月、謙信は春日山城で急死しました。49歳でした。

謙信には実子がなく、二人の養子・上杉景勝と上杉景虎の間で跡継ぎ争い(御館の乱)が起こります。上杉家が内輪もめで弱るあいだに、柴田勝家は加賀・能登を次々に取り戻し、北陸の織田方の勢力はふたたび広がっていきました。

手取川の戦いのゆかりの地

  • 手取川(石川県白山市・能美市・川北町):白山から日本海へ流れる急流。古戦場の碑が川のほとりに立つ
  • 七尾城跡(石川県七尾市):能登畠山氏の城。国の史跡で、山の上に石垣や曲輪が残る。日本五大山城の一つに数えられることがある
  • 春日山城跡(新潟県上越市):謙信の本拠。国の史跡
  • 長浜城(滋賀県長浜市):秀吉が無断で引き上げた先の、秀吉の居城

筆者のひとこと

秀吉の無断撤退は正しい判断だったのか。筆者は、残っても良かったのでは?と思います。

この戦いに登場した主な武将(上杉方)

この戦いに登場した主な武将(織田方)

※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

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