伊勢国の長島(三重県桑名市)は、木曽川・長良川・揖斐川の三つの大河が海に注ぐ、川と中州に囲まれた土地です。ここで、浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒たちが立ち上がり、織田信長と4年にわたって戦いました。これが長島一向一揆(ながしまいっこういっき)です。信長は2度攻めて2度とも失敗し、弟や重臣を失いました。3度目の攻撃でようやく一揆は降伏しますが、その結末はあまりにも過酷なものでした。この記事では、長島一向一揆の始まりから終わりまでを、わかりやすく解説します。
| いつ | 元亀元年(1570年)の蜂起から、天正2年(1574年)9月の落城まで(信長の攻撃は3度) |
|---|---|
| どこ | 伊勢国長島(三重県桑名市長島町のあたり)。木曽川・長良川・揖斐川の河口の輪中地帯 |
| 誰と誰 | 織田信長 対 長島の一向一揆(願証寺を中心とする本願寺門徒) |
| 兵力 | 天正2年の最後の攻撃で、織田方は数万の兵と九鬼嘉隆らの水軍を動員したといわれる |
| 結果 | 3度目の攻撃で一揆は降伏したが、信長は城を出た人々を攻撃し、残った砦も焼き払った |
| この後 | 伊勢・尾張の境の脅威が消え、信長は翌年の長篠の戦い、越前一向一揆の制圧へと進む |
長島一向一揆を3行でいうと
- 本願寺の呼びかけで、長島の門徒たちが信長に対して立ち上がった(1570年)
- 川に守られた長島は攻めにくく、信長は2度の攻撃に失敗し、弟の信興や重臣を失った
- 1574年、信長は水軍で長島を完全に囲み、降伏した人々も含めて門徒を徹底的に討ち果たした
長島はなぜ一揆の拠点になったのか
長島には、本願寺の一族が住職を務める願証寺(がんしょうじ)があり、伊勢・尾張・美濃の門徒たちの中心になっていました。三つの大河の河口にある長島は、川と中州が入り組んだ「輪中(わじゅう)」の地で、城や砦を川が守る天然の要害でした。
元亀元年(1570年)、大坂の石山本願寺の顕如は、全国の門徒に信長と戦うよう呼びかけました(石山合戦の始まり)。長島の門徒たちもこれに応え、尾張の小木江城(こきえじょう)を攻めて、守っていた信長の弟・織田信興を自害に追い込みます。
第一次・第二次の攻撃 — 二度の失敗

元亀2年(1571年)5月、信長は大軍で長島を攻めました(第一次長島攻め)。しかし、川と湿地にはばまれて思うように攻められず、引き上げる途中で一揆勢に襲われます。殿(しんがり)を務めた柴田勝家が負傷し、美濃の名将・氏家卜全が討ち死にしました。
天正元年(1573年)9月にも、信長は再び長島を攻めました(第二次長島攻め)。周りの城をいくつか落としましたが、長島の本拠を落とすには至らず、この撤退でも多くの兵を失いました。陸からだけでは長島は落とせない。信長は、そのことを思い知らされます。
第三次の攻撃 — 水陸から完全に囲む
天正2年(1574年)7月、信長は三たび長島へ向かいました。今度は、陸から大軍で攻めるだけでなく、九鬼嘉隆らの水軍を伊勢湾から送り込み、長島を海と川からも完全に囲みます。一揆勢は、長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居などの城や砦に立てこもりました。
信長は、城を力攻めするのではなく、周りをびっしりと囲んで食糧が入らないようにする「兵糧攻め」をとりました。城の中には、戦う兵だけでなく、逃げこんだ多くの門徒やその家族がいたため、食糧はすぐに尽き、飢えに苦しむ人が続出したといわれます。
降伏、そして殲滅(せんめつ)

9月、長島城にこもっていた一揆勢は、ついに降伏を申し出て、船で城を出ました。ところが、信長はこの人々に鉄砲を撃ちかけて攻撃します。怒った門徒の一部は死にものぐるいで反撃し、織田方では信長の兄・織田信広や、弟の織田秀成など一族の多くが討ち死にしました。
さらに信長は、最後まで残った中江・屋長島の砦を幾重もの柵で囲み、火をかけて焼き払いました。この戦いで命を落とした門徒は、2万人にのぼるともいわれます(数字は記録によって異なります)。信長は、自らの手紙の中でも、長島の門徒を根絶やしにしたことを記しています。
信長はなぜここまで徹底したのか
長島の戦いは、比叡山焼き討ちと並んで、信長の残酷さを示す出来事としてよく語られます。一方で、長島の一揆は信長の弟や多くの家臣を討った強敵であり、本願寺と結んで信長包囲網の一角をなす「軍事勢力」でもありました。信長にとっては、尾張と伊勢の境にある長島をそのままにしておくことは、本拠地のすぐそばに敵を抱えることを意味していたのです。
いずれにしても、降伏した人々まで討ったこの戦いは、信長と一向宗の戦いが、ゆずりあう余地のない激しいものだったことを物語っています。
その後 — 長篠、越前、そして石山本願寺へ
長島を平定したことで、信長は本拠地の近くの脅威をなくしました。翌天正3年(1575年)には長篠の戦いで武田勝頼を破り、続いて越前の一向一揆も徹底的に制圧します。そして天正8年(1580年)、10年に及んだ石山本願寺との戦いも、本願寺が大坂を退くことで終わりました。
長島一向一揆のゆかりの地
- 長島城跡(長島中部小学校・長島中学校のあたり)(三重県桑名市長島町):一揆勢がこもった長島城の跡。江戸時代も長島藩の城が置かれた
- 願証寺(三重県桑名市長島町又木):長島一向一揆の中心となった寺。現在の寺は江戸時代に再興されたもの
- 小木江城跡(愛知県愛西市):信長の弟・織田信興が一揆勢に攻められて自害した城
筆者のひとこと
降伏した人々まで討った信長のやり方は、残酷ではありますが、仕方がなかったのかもしれません。そうしなければ、一揆勢に永遠に逆らわれ続けることになったでしょうから。
この戦いに登場した主な武将(織田方)
※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。






























