秀吉と佐々成政の戦いをわかりやすく解説|末森城の戦い・さらさら越え・富山の役 ― 成政はなぜ最後まで秀吉に逆らったのか

雪の北アルプスを越える佐々成政のイメージ

天正12年(1584)から13年にかけて、越中(いまの富山県)の佐々成政は、ほとんどの大名が秀吉になびくなか、ただひとり北陸で秀吉に逆らい続けました。隣国の前田利家の末森城を攻め、真冬の北アルプスを越えて徳川家康に会いに行き、最後は秀吉の大軍に富山城を囲まれて降伏します。秀吉と佐々成政の戦いを、末森城の戦い・さらさら越え・富山の役の三つの場面から、登場する武将と戦いの流れでわかりやすく解説します。

先に答え

佐々成政は、小牧・長久手の戦いで家康・織田信雄の側につき、秀吉方の前田利家の末森城を攻めました(末森城の戦い)。しかし城は持ちこたえ、利家の救援で成政は兵を引きます。その後、家康と信雄が秀吉と和睦してしまい、成政は北陸で孤立しました。

成政は真冬の北アルプスを越えて浜松の家康に再挙兵を説いたと伝わりますが(さらさら越え)、家康は動きませんでした。天正13年(1585)8月、関白となった秀吉は大軍で越中に攻めこみ、富山城を囲みます(富山の役)。成政は頭を丸めて降伏し、命は助けられましたが、越中のほとんどを失いました。

秀吉と佐々成政の戦いの基本データ

いつ 末森城の戦い=天正12年(1584)9月/さらさら越え=同年冬/富山の役=天正13年(1585)8月
どこ 末森城(いまの石川県宝達志水町)、立山・北アルプス、富山城と倶利伽羅峠(富山県・石川県)
対立 佐々成政(越中)× 羽柴秀吉・前田利家(加賀・能登)
兵力 末森城の戦い=佐々軍 約15,000、城兵 約500、前田の救援 約2,500/富山の役=秀吉軍 約10万(いずれも通説)
結果 末森城は落ちず、成政は撤退。富山の役では大きな戦いのないまま、成政が8月26日に降伏
この後 成政は越中のうち新川郡だけを残されて大坂へ。のちに肥後を与えられるが、国人一揆の責任をとらされ、天正16年(1588)に切腹
末森城を囲む佐々軍と、駆けつける前田利家の救援軍のイメージ
末森城を囲む佐々軍と、海沿いの道から駆けつける前田利家の救援軍(イメージ)

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目次

秀吉と佐々成政の戦いの年表

年月日 おもな出来事
天正9年(1581) 成政が織田信長から越中一国を任され、富山城を本拠とする
天正10年(1582)6月 本能寺の変。成政は上司の柴田勝家につく
天正11年(1583)4月 賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れる。成政は越中で上杉景勝への備え(北の押さえ)に追われ、わずかな援兵を送っただけだった。戦後、娘を人質に出して秀吉に従う
天正12年(1584)3月 小牧・長久手の戦いが始まる。成政ははじめ秀吉方にとどまる
天正12年4月以降 長久手の戦いで家康が勝つと、成政は家康・織田信雄の側に立つ
天正12年9月 末森城の戦い。成政が前田方の末森城を囲むが、城将の奥村永福が守り抜き、救援に来た利家に背後をつかれて撤退
天正12年11月 信雄が秀吉と単独で和睦し、家康も兵を引く。成政は北陸で孤立する
天正12年冬 さらさら越え。成政が北アルプスを越えて浜松の家康のもとへ行き、再挙兵を説くが、家康は応じない
天正13年(1585)6〜7月 秀長を総大将とする四国攻めで長宗我部元親が降る。7月、秀吉が関白になる
天正13年8月 富山の役。秀吉が自ら出陣し、約10万で越中に攻めこむ。成政の味方だった飛騨の姉小路頼綱も金森長近に攻められる
天正13年8月26日 成政が信雄の取りなしで、頭を丸めて秀吉の陣に出向き降伏。越中の新川郡だけを残される
天正13年閏8月 秀吉が富山城に入り、城を壊して引き揚げる。越中の西の三郡は前田家に与えられる
天正15年(1587) 九州征伐ののち、成政が肥後一国を与えられる。検地に反発した国人たちが一揆を起こす
天正16年(1588)閏5月14日 一揆の責任を問われ、摂津尼崎の法園寺で切腹

なぜ戦いが起きたのか ― 秀吉に頭を下げきれなかった男

佐々成政は尾張の出身で、若いころから信長の親衛隊「黒母衣衆」に選ばれた武闘派です。同じころ「赤母衣衆」に選ばれたのが前田利家で、二人は信長のもとで肩を並べて出世しました。やがて二人は柴田勝家の与力として北陸に送られ、成政は越中、利家は能登を任されます。

本能寺の変ののち、織田家の主導権をめぐって秀吉と勝家が争うと、成政と利家はともに勝家の側につきました。ところが賤ヶ岳の戦いで、利家は戦いの最中に兵を引き、その後秀吉に従って加賀・能登を治める大名になります。一方、越中で上杉景勝ににらまれていた成政は、北の押さえとして越中を離れられず、叔父にわずかな援兵をつけて送るのがやっとでした。勝家が滅ぶと、成政は娘を人質に出して秀吉に従うしかありませんでした。かつての同僚の利家が秀吉方の大大名となり、自分はその下に置かれる。成政にとって、心から納得できる立場ではなかったはずです。

天正12年(1584)3月、信長の次男・織田信雄と徳川家康が秀吉に対して兵を挙げます(小牧・長久手の戦い)。成政は、はじめは秀吉方にとどまっていました。この年の正月には、秀吉の取りはからいで陸奥守に任じられてもいます。ところが4月、長久手の戦いで家康が秀吉方の大軍を破ると、成政はこれを秀吉を倒す好機と見て、家康・信雄の側に傾いていきます。家康の側からも、成政に味方を求める働きかけがあったと考えられています。北陸で秀吉方の前田利家をたたけば、秀吉を背後からおびやかすことができます。こうして、かつての同僚どうしが北陸で刃を交えることになりました。

くらべる点 佐々成政 前田利家
出身 尾張・比良城 尾張・荒子城
信長のもとで 黒母衣衆の筆頭 赤母衣衆の筆頭
北陸で任された国 越中(富山城) 能登(七尾城、のち小丸山城)
賤ヶ岳の戦い 越中にいて戦えず、のちに秀吉に従う 戦いの途中で兵を引き、秀吉方に。加賀も得る
小牧・長久手の戦い 家康・信雄方 秀吉方

兵力くらべ ― 末森城の攻防と、秀吉の10万

秀吉と佐々成政の戦いの兵力(通説)

富山の役の秀吉軍約100,000
末森城を攻めた佐々軍約15,000
前田利家の救援軍約2,500
末森城の城兵(奥村永福)約500

末森城では、佐々軍が城兵の約30倍で攻めながら、城を落とせませんでした。その成政が翌年に向き合ったのは、末森城の佐々軍のさらに6倍以上にあたる秀吉の大軍です。数字は後世の記録による通説で、史料によって幅があります。

秀吉と佐々成政の戦いに登場した主な武将(佐々方)

人物 立場 この戦いでの動き
佐々成政 越中の大名。富山城主 末森城を攻めるが落とせず。さらさら越えで家康に再挙兵を説くも実らず、富山の役で降伏する
神保氏張 越中の名門・神保家の一族。成政の妹婿 成政に従って戦う。降伏後は成政と行動をともにし、のちに家康に仕える
野々村幸政 成政の家臣 成政に従って越中で戦う
姉小路頼綱 飛騨の大名。成政と結ぶ 富山の役と同時に金森長近に攻められ、飛騨を失う
織田信雄 信長の次男。小牧・長久手で秀吉と戦う 天正12年11月に秀吉と単独で和睦し、成政を孤立させる。富山の役では秀吉方の総大将格として出陣し、成政の降伏を取りもつ
徳川家康 三河・遠江・駿河などの大名 浜松でさらさら越えの成政に会うが、再挙兵には応じない

秀吉と佐々成政の戦いに登場した主な武将(秀吉方)

人物 立場 この戦いでの動き
羽柴(豊臣)秀吉 天下人。天正13年7月に関白となる 富山の役で自ら出陣し、倶利伽羅峠に陣を置いて越中を囲む。降った成政の命は助ける
前田利家 加賀・能登の大名。成政のかつての同僚 末森城の危機に自ら救援に駆けつけ、佐々軍を退ける。富山の役では先鋒をつとめる
奥村永福 前田家の重臣。末森城の城将 わずかな兵で佐々の大軍から城を守り抜く。妻も城兵を励ましたと伝わる
村井長頼 利家の側近 利家とともに末森城の救援に向かう
前田利長 利家の嫡男 富山の役ののち、越中の西の三郡を与えられる
金森長近 越前大野の大名 富山の役と同時に飛騨へ攻めこみ、成政の味方の姉小路家を降す。のちに飛騨の大名となる
上杉景勝 越後の大名 越中の東から成政をおびやかし、富山の役では越中との国境まで兵を進める
豊臣秀長 秀吉の弟 富山の役の直前、四国攻めの総大将として長宗我部元親を降す。秀吉が北陸に兵を向けられたのは、四国が片づいたからでもあった

戦いの流れ ― 末森城から富山城の降伏まで

末森城・金沢城・富山城・倶利伽羅峠・立山の位置関係図
末森城・金沢城・富山城と、倶利伽羅峠・立山の位置関係(イメージ図)。成政の越中は、西の前田、東の上杉、南の飛騨にはさまれていた

① 天正12年9月 ― 末森城への奇襲

末森城は、加賀と能登を結ぶ道をおさえる山城です。ここを落とせば、前田利家の領地は北の能登と南の加賀に分断されます。天正12年(1584)9月、成政は約1万5千の兵で越中から山を越えて加賀・能登の境に入り、末森城を囲みました。

城を守っていたのは前田家の重臣・奥村永福で、城兵は500ほどしかいなかったといわれます。佐々軍は外側の曲輪を次々に奪い、城は本丸を残すだけの落城寸前まで追いこまれました。奥村永福の妻が薙刀を手に城内を見回り、粥をふるまって兵を励ましたという話も伝わっています。

② 前田利家の救援 ― 夜の海沿いの道を駆ける

金沢城で知らせを受けた利家は、すぐに救援を決めました。家臣の中には、佐々の大軍を前に慎重論もあったといいます。しかし利家は約2,500の兵を率いて夜のうちに金沢を発ち、佐々軍に気づかれないよう海沿いの道を北へ進みました。

夜明けごろ末森城に着いた利家の軍は、城を囲む佐々軍の背後に攻めかかります。城の中からも奥村永福の兵が打って出て、佐々軍は前後からはさまれる形になりました。城を落とす寸前だった成政は、ついに兵を引いて越中へ帰ります。利家にとっては、自分の領国を守り抜いた大きな勝利でした。

③ 天正12年11月 ― 信雄と家康の和睦で孤立

成政にとって痛かったのは、末森城の失敗よりも、そのあとの出来事でした。11月、小牧・長久手で秀吉と戦っていた織田信雄が、家康に相談しないまま秀吉と和睦してしまいます。戦う名目を失った家康も兵を引きました。秀吉に対抗するために兵を挙げた成政は、気がつけば北陸でただひとり取り残されていました。西には前田利家、東には秀吉と結ぶ上杉景勝。越中は秀吉方に挟まれていました。

④ 天正12年冬 ― さらさら越え

雪の北アルプスを越える佐々成政のイメージ
雪の北アルプスを越える佐々成政と家臣たち(さらさら越えのイメージ)

成政は、家康にもう一度兵を挙げてもらうしかないと考えました。しかし越中から浜松へ向かう道は、西の加賀も東の越後も敵の領地です。そこで成政は、少数の家臣だけを連れて、雪に閉ざされた立山・北アルプスの峠を越えて信濃へ抜け、浜松の家康のもとへ向かったと伝わります。これが「さらさら越え」です。

越えた道すじは、立山のザラ峠から針ノ木峠を通る道だったとする説と、飛騨を回る道だったとする説があり、はっきりしていません。真冬に越えたというのも通説で、確かな記録はありません。ただ、成政がこの冬に家康の領地を訪れ、家康や信雄と会ったことは、ほぼ確かとされています。

命がけでたどり着いた成政に、家康は首を縦にふりませんでした。すでに秀吉と和睦した家康にとって、いま戦う理由はなかったのです。成政は失意のうちに越中へ帰りました。

⑤ 天正13年8月 ― 富山の役、10万の大軍

呉羽山から見おろす富山城と秀吉方の大軍のイメージ
呉羽山から見おろす富山城と、城を囲む秀吉方の大軍(イメージ)

天正13年(1585)、秀吉は紀州を平定し、弟の秀長に命じて四国の長宗我部元親を降すと、7月には関白になりました。残る大きな敵は、九州の島津、関東の北条、そして越中の成政です。8月、秀吉は織田信雄を先に立てて、自ら京を出陣しました。

8月19日、秀吉の大軍は加賀から越中に攻めこみ、富山城を囲みました。秀吉は加賀と越中の境の倶利伽羅峠に陣を置き、前田利家や信雄の軍は、富山城を見おろす呉羽山の白鳥城などに入って城に迫ったといわれます。東からは上杉景勝が越中の国境まで兵を進め、南の飛騨では金森長近が成政の味方の姉小路頼綱を攻めました。成政は越中の城から兵を引き上げて富山城に集めましたが、もはや四方を囲まれていました。

⑥ 8月26日 ― 頭を丸めて降伏

勝ち目がないことは、誰の目にも明らかでした。成政は、かつて同じ側で秀吉と戦った織田信雄に取りなしを頼み、8月26日、頭を丸めて僧の姿となり、秀吉の陣に出向いて降伏しました。大きな合戦はほとんどないまま、富山の役は終わりました。

秀吉は成政の命を助けました。ただし越中のうち新川郡だけを残して領地を取り上げ、成政を妻子とともに大坂へ移します。閏8月、秀吉は富山城に入り、城を壊して大坂へ引き揚げました。越中の西の三郡は前田家に与えられ、のちの「加賀百万石」の一部となっていきます。

なぜ成政は秀吉に勝てなかったのか

理由 内容
末森城を落とせなかった 約30倍の兵で囲みながら落とせず、利家の救援を許した。北陸で秀吉方の拠点をくずす最初の一手がつまずいた
頼みの家康・信雄が先に和睦した 秀吉と戦う「大義」も「味方」も失い、北陸でただひとり取り残された
四方を秀吉方に囲まれていた 西に前田、東に上杉、南の飛騨にも金森。越中から外へ出る道さえ、雪の北アルプスしかなかった
秀吉が四国を片づけた 秀長の四国攻めが早く終わり、秀吉は10万の大軍を北陸に向けることができた

成政は戦場での強さでは名の知れた武将でしたが、秀吉との戦いは、合戦の強さだけでは決まりませんでした。秀吉は信雄と家康を先に和睦で切り離し、四国を片づけてから、孤立した成政に大軍を向けています。さらさら越えの執念は、すでに決まりかけた流れを変えるには至らなかったのです。

秀吉と佐々成政の戦いのその後

人物・家 その後
佐々成政 大坂で秀吉の御伽衆(話し相手)となる。天正15年(1587)の九州征伐ののち、肥後一国を与えられる。しかし検地に反発した隈部親永ら国人たちが一揆を起こし、自力でおさめられなかった。天正16年(1588)閏5月14日、責任を問われて尼崎の法園寺で切腹。安国寺恵瓊の助命の願いも聞き入れられなかったという
肥後 一揆は小早川隆景ら九州・中国の大名が動員されてしずめられ、肥後は加藤清正と小西行長に分けて与えられる
前田利家 越中の西三郡を加え、北陸一の大名となる。のちに豊臣政権の五大老の一人に
織田信雄 秀吉のもとで大名として残るが、小田原征伐ののち国替えを断って改易される
徳川家康 翌天正14年(1586)、秀吉の妹・朝日姫を妻に迎え、上洛して秀吉に臣従する

成政の切腹については、一揆の起きやすい肥後をあえて成政に与えたのではないかという見方と、成政が秀吉の命じた検地を急いで進めすぎたためという見方があります。「早百合(さゆり)」という側室を疑って殺したことから、のちに黒百合の祟りが語られる、という伝説も、越中には残っています。

筆者のひとこと

富山には行ったことがあり、富山の薬のお店にも立ち寄りました。ただ富山城は、バスで前を通って外から眺めただけでした。

それでも、黒塗りの櫓が見え、とても雰囲気のある城でした。石垣も立派で、水堀もそれなりの広さがあったと記憶しています。いまの天守は戦後に建てられた模擬天守ですが、神保、上杉、佐々、前田と城主が次々に変わった城だと思うと、歴史の重みを感じます。

成政はもともと柴田勝家に近い武将でしたが、本能寺の変のあと、はじめは秀吉に従っていたそうです。賤ヶ岳の戦いのときは、越中で上杉への押さえとして動けませんでした。もし成政が賤ヶ岳に出陣できていたら、流れは変わっていたかもしれません。

その後、小牧・長久手の戦いのさなかに秀吉と敵対します。家康や織田信雄からの誘いもあったのでしょうか。

最初から秀吉に従い続けていれば、越中一国は守れたはずです。そうなっていたら、のちの「加賀百万石」もなかったかもしれません。

まとめ

佐々成政は、小牧・長久手の戦いで家康・信雄の側に立ち、北陸で秀吉方の前田利家の末森城を攻めましたが、奥村永福の守りと利家の救援にはばまれました。頼みの信雄と家康が秀吉と和睦すると、成政は真冬の北アルプスを越えて家康に再挙兵を説きますが、家康は動きませんでした。関白となった秀吉は10万の大軍で越中を囲み、成政は頭を丸めて降伏します。最後まで秀吉に頭を下げきれなかった成政の戦いは、秀吉の天下統一の流れの中で、北陸の最後の抵抗となりました。

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