ありよし たてゆき
| 地域 | 近畿・九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 細川家臣 |
| 大名家 | 細川 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 家老・城代 |
有吉立行(1559〜1608)は細川藤孝・忠興父子に仕えた武士。慶長5年(1600)には豊後杵築(木付)城を守り、大友義統の軍を退けた。忠興の豊前入封後は家老となり、長岡の姓を許された。子孫は細川家の家老を代々務めた。
出自と細川家への奉公
有吉立行は永禄元年12月11日(1559年1月)に京都で生まれた。初名は立理、通称は四郎左衛門(四郎右衛門とも)。父の有吉立言は細川元常に仕えた武士である。
立行は細川藤孝(幽斎)と子の忠興に仕えた。天正元年(1573)の淀古城攻め以来、三十数度の合戦に出たとされる。細川家の丹後時代には中山城の城代などを務めた。
杵築城の守備と石垣原の戦い
慶長5年(1600)、忠興は徳川家康の上杉討伐に従い、関東へ出陣した。当時、細川家は豊後にも所領を持ち、杵築(木付)城を拠点としていた。立行は松井康之らとともにこの城の留守を預かった。
同年9月、西軍に呼応した大友義統が豊後に入り、杵築城を攻めた。立行らは城を守り、黒田如水と連携した。義統の軍は石垣原の戦いで如水の軍に敗れ、降伏した。
豊前での家老
関ヶ原の戦いの後、忠興は豊前一国と豊後の一部を与えられた。立行は細川家の家老となり、忠勤の功で主家の旧姓である長岡の姓を許された。
慶長12年12月14日(1608年1月)、立行は備後鞆の船中で病没した。享年50。天聖寺に葬られたとされる。有吉家はその後も細川家の家老職を世襲し、肥後熊本藩では松井家・米田家とともに三家老の家となった。
ゆかりの地
- 杵築城(杵築市):慶長5年に松井康之らと守った城
- 石垣原古戦場(別府市):大友義統の軍が黒田如水の軍に敗れた戦場
参考にした資料
細川家の家老
立行は、細川藤孝・忠興の父子に仕えた武士です。1559年に京都で生まれました。
名前
立行の初名は立理、通称は四郎左衛門(四郎右衛門とも)でした。
父有吉立言
父の有吉立言は、細川元常に仕えた武士でした。
藤孝・忠興に仕える
立行は、細川藤孝(幽斎)と、その子の忠興に仕えました。
細川家の戦い
立行は、細川家の家臣として、信長・秀吉の時代の多くの戦いに加わりました。
関ヶ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いで、忠興は東軍に加わりました。
杵築城の守り
このとき立行は、細川家の飛び地であった豊後の杵築(木付)城を守っていました。
大友義統の攻撃
豊後では、旧領の回復を目指す大友義統が西軍に味方して兵を挙げ、杵築城を攻めました。
城を守り抜く
立行は、杵築城を守り抜き、大友義統の軍を退けました。
石垣原の戦い
その後、黒田官兵衛が石垣原の戦いで大友義統の軍を破りました。
豊前の家老
戦後、忠興は豊前の大名となり、立行は家老となりました。
長岡の姓
立行は、細川家から長岡の姓を名乗ることを許されました。長岡は細川家が名乗ることもあった姓で、重臣への厚い信頼の証でした。
最期
立行は1608年に亡くなりました。
有吉家のその後
立行の子孫は、細川家の家老を代々務め、肥後熊本藩の重臣の家として続きました。
立行の評価
立行は、細川藤孝・忠興に仕え、関ヶ原の戦いのときに豊後の杵築城を守り抜いた武士です。その家は、熊本藩の家老の家として長く続きました。
このイラストについて
甲冑姿の武将が槍を構え、雨の中で兵たちとともに立つ姿です。
槍を構えた姿は、関ヶ原の戦いのときに豊後の杵築城を守り、大友義統の軍を退けた立行をイメージしています。雨の中の場面は、籠城の厳しさを表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
足利氏の一族・細川氏のうち、細川藤孝(幽斎)に始まる家。藤孝は室町幕府の幕臣として足利義昭を支えた後、織田信長に仕え、丹後を与えられた。古今伝授を受けた当代一流の文化人でもある。
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