天正地震で人生が変わった人々|帰雲城の内ヶ島氏・山内一豊の娘・前田秀継…秀吉の家康攻めはなぜ止まった?【被害マップつき】

天正地震で崩れ落ちる長浜城と、立ちすくむ武将のイラスト

天正13年(1585)11月29日の夜、中部から近畿にかけての広い地域を巨大な地震が襲いました。天正地震です。石川数正が徳川家康のもとを去ってから、わずか半月後のことでした。

この地震は、秀吉が準備していた家康攻めを止めたともいわれ、歴史の流れを大きく変えました。そしてその陰で、一族ごと消えた城主、幼い娘を失った武将、兄の天下取りを支えてきた弟の死など、多くの人の人生が変わっています。この記事では、天正地震を人物の側からたどります。

この記事のポイント

  • 天正地震は天正13年11月29日(1586年1月18日)の夜に起きた、若狭湾から三河湾にまで被害が及んだ大地震
  • 飛騨の帰雲城は山崩れで埋まり、城主・内ヶ島氏理の一族が滅亡した
  • 長浜城では山内一豊の娘・与祢が、越中の木舟城では前田利家の弟・秀継が亡くなった
  • 秀吉は家康攻めの準備を進めていたが、地震で中止したといわれる。翌年、家康は秀吉に臣従する
目次

天正地震とは

発生天正13年11月29日(1586年1月18日)の夜10時ごろ。2日前の27日にも地震があったとされる
規模マグニチュード8前後と推定(大きな地震が2回あったとする説もある)
被害の範囲若狭湾から三河湾まで。現在の福井・石川・富山・岐阜・愛知・三重・滋賀・京都・奈良など
余震12日ほど続いたと記録され、翌月まで揺れが続いたとする日記もある

震源となった断層はまだはっきりわかっていません。ただ、山崩れや液状化の跡は各地で見つかっており、戦国時代でも最大級の地震だったと考えられています。

被害を受けたおもな城と人物 — マップ

天正地震で被害を受けた城の地図。帰雲城、木舟城、長浜城、大垣城、長島城、秀吉のいた坂本城、家康の浜松城
天正地震で被害を受けたおもな城と人物

天正地震で人生が変わった人々

人物場所何が起きたか
内ヶ島氏理内ヶ島氏理帰雲城(岐阜県白川村)山崩れで城と城下が埋まり、一族とともに行方不明に。内ヶ島氏は滅亡した
山内一豊長浜城(滋賀県長浜市)城が全壊し、一人娘の与祢(数え6歳)と乳母が亡くなった。家老の乾和信夫妻も死去
見性院(千代)見性院(千代)長浜城一豊の妻。自身は無事だったが、娘の与祢を失った
前田秀継前田秀継木舟城(富山県高岡市)前田利家の弟。城が倒れ、夫妻ともに亡くなった
前田利家加賀・越中弟の秀継を失い、越中の守りを立て直すことになった
織田信雄長島城(三重県桑名市)居城が倒れ、城下の桑名も液状化で大きな被害。居城を清洲城に移した
豊臣秀吉坂本城(滋賀県大津市)近江の坂本にいたが、地震のあとすぐに大坂城へ移ったとされる。家康攻めの計画は止まった
徳川家康浜松城(静岡県浜松市)秀吉の大軍に攻められる危機を免れ、翌年、秀吉と和解して臣従する

帰雲城 — 一夜で消えた城と一族

天正地震でもっとも劇的な被害を受けたのが、飛騨の白川郷にあった帰雲城です。城の背後にそびえる帰雲山が大きく崩れ、城と城下町をのみ込みました。城主の内ヶ島氏理をはじめ、一族や家臣の多くが行方不明となり、内ヶ島氏はこの一夜で滅びました。白川郷では300軒ほどが倒れたり埋まったりしたと伝わります。

内ヶ島氏は、この年の夏、秀吉方の金森長近に攻められて降伏し、ようやく所領を安堵されたばかりでした。城の跡は今もはっきりわかっておらず、「埋蔵金伝説」とともに語り継がれています。

長浜城 — 山内一豊と千代が失った娘

近江の長浜城は、もとは秀吉が初めて城持ち大名となった城で、このころは山内一豊が城主でした。地震で城は全壊し、一豊と妻・千代(見性院)の一人娘・与祢が、乳母とともに建物の下敷きになって亡くなったと伝わります。数えで6歳でした。

一豊と千代は、その後ほかに子をもうけることはありませんでした。のちに一豊は土佐一国の大名となりますが、その跡を継いだのは弟の子・忠義です。天正地震は、山内家の跡継ぎのあり方まで変えたことになります。

木舟城 — 前田利家の弟・秀継の死

越中の木舟城では、城主の前田秀継が夫人とともに亡くなりました。秀継は前田利家の弟です。この年の夏、越中の佐々成政が秀吉に降伏すると、越中の一部が前田家に与えられ、秀継が木舟城に入っていました。新しい領地を治め始めた矢先の悲劇で、前田家は越中の守りを立て直す必要に迫られました。

秀吉の家康攻めはなぜ止まったのか

この年の11月、徳川家の家老・石川数正が秀吉のもとへ出奔しました(石川数正はなぜ寝返った?)。秀吉はこの機に家康を攻める準備を進め、美濃の大垣城に兵糧を集めていたといわれます。

ところが、その大垣城が地震で全壊・焼失し、近江・美濃・伊勢の城や城下も大きな被害を受けました。家康攻めの前線になるはずの地域が、まるごと被災したのです。秀吉は家康攻めをとりやめ、方針を和睦へと切り替えたと考えられています。翌天正14年、秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせ、母の大政所まで岡崎に送って、家康の上洛を実現させました(大政所の人質事件と家康の上洛)。

天正地震がなければ、秀吉と家康はもう一度戦っていたかもしれません。そうなれば、のちの江戸幕府もなかった可能性があります。

地震のあとの秀吉 — 「なまず大事」

秀吉は地震の体験を忘れなかったようです。文禄元年(1592)、伏見城の普請を担当した前田玄以にあてた手紙には「なまず大事」と書かれており、地震への備えを指示したものと考えられています。それでも伏見城は、慶長元年(1596)の慶長伏見地震で倒壊してしまいました。

天正地震ゆかりの地

  • 帰雲城跡(岐阜県白川村保木脇):城の正確な位置は不明。崩れた帰雲山の山肌と、慰霊の碑が残る
  • 長浜城(滋賀県長浜市):現在の天守は昭和に再建された歴史博物館
  • 木舟城跡(富山県高岡市福岡町):城跡の碑が立つ
  • 清洲城(愛知県清須市):地震のあと、織田信雄が居城として大改修した

よくある質問

Q. 天正地震はいつ起きた?

A. 天正13年11月29日、現在の暦で1586年1月18日の夜10時ごろです。

Q. 天正地震で亡くなった有名な人は?

A. 帰雲城主の内ヶ島氏理とその一族、山内一豊の娘・与祢、前田利家の弟・前田秀継などです。

Q. 天正地震がなければ、秀吉と家康は戦っていた?

A. 秀吉は家康攻めの準備を進めていたといわれ、地震がその計画を止めたと考えられています。ただし秀吉がどこまで本気で攻めるつもりだったかについては、見方が分かれています。

まとめ

天正地震は、内ヶ島氏を一夜で滅ぼし、山内一豊と千代から娘を、前田利家から弟を奪いました。そして秀吉の家康攻めを止め、秀吉と家康を和睦へと向かわせます。大河で数正の出奔のあとに描かれる秀吉と家康の駆け引きは、この大地震を抜きには語れません。

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