平岡頼勝 | 小早川秀秋の家老、美濃徳野藩の祖

ひらおか よりかつ

地域摂津国出身、のち美濃国(岐阜県可児市)
所属勢力・属性小早川家臣、のち徳川家
大名家小早川氏→平岡氏(徳野藩)
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ家老・調略

平岡頼勝は、小早川秀秋の家老として知られる武将である。関ヶ原の戦いでは秀秋を東軍につかせ、西軍の大谷吉継の軍を崩す大きなきっかけをつくった。秀秋の死後は徳川家康に仕え、美濃徳野藩1万石の祖となった。

目次

摂津の出、流浪から家老へ

頼勝は永禄3年(1560)に生まれた。摂津国の溝杭(大阪府茨木市付近)の出身で、通称を石見守といった。父の溝杭頼俊とともに諸国を流浪していたが、豊臣秀吉に見いだされたと伝わる。

秀吉は、妻ねねの甥にあたる秀秋を小早川隆景の養子とした。頼勝はこの秀秋に家老としてつけられ、若い主君をささえる立場となった。

頼勝は秀秋より20歳ほど年上であり、若い主君の後見役という意味合いも大きかった。

関ヶ原の戦いと秀秋の寝返り

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、秀秋ははじめ西軍に属し、松尾山に陣をしいた。しかし戦いのさなかに東軍に寝返り、山を下りて西軍の大谷吉継の軍に攻めかかった。

頼勝は、この戦いの中で秀秋を説得し、東軍への内通を進めたとされる。小早川軍の攻撃で大谷軍は壊滅し、東軍の大勝につながった。頼勝は、同じ家老の稲葉正成とともに、この寝返りを支えた人物として名を残している。

児島2万石から美濃徳野へ

戦いのあと、秀秋は備前・美作をあたえられて岡山城主となった。頼勝も備前国児島で2万石をあたえられたとされる。

しかし秀秋は慶長7年(1602)に若くして亡くなり、跡継ぎがなく小早川家は断絶した。頼勝は再び浪人となったが、やがて徳川家康に仕えた。慶長9年(1604)ごろ、美濃国で1万石余りをあたえられ、徳野(岐阜県可児市)に陣屋を構えた。これが美濃徳野藩の始まりである。頼勝は慶長12年(1607)2月29日、48歳で亡くなった。

徳野藩のその後

徳野藩は、頼勝の子・頼資が2代藩主として受けついだ。頼資は慶長12年(1607)から承応2年(1653)まで藩主をつとめたとされる。

頼勝の墓は、可児市下恵土の禅台寺の境内に残っている。近くには頼資の墓とされるものもあり、平岡家が可児の地に根をおろしていたことを伝えている。

小早川家が断絶したあと、旧家臣の多くは他家に仕えた。同じ家老だった稲葉正成も、のちに大名に取り立てられている。関ヶ原で主君を東軍につかせた二人の家老は、ともに徳川の世で家を立てることになった。

ゆかりの地

  • 平岡頼勝の墓・禅台寺(岐阜県可児市下恵土):頼勝の墓がある寺
  • 関ヶ原古戦場・松尾山(岐阜県不破郡関ケ原町):小早川秀秋が陣をしいた山。頼勝もここから東軍に転じた

参考にした資料

平岡頼勝とは

平岡頼勝は、小早川秀秋の家老を務めた武将です。のちに美濃の徳野藩の藩主となりました。

小早川秀秋の家老

頼勝は、稲葉正成とともに秀秋の家老として家を支えました。

関ヶ原の寝返り

関ヶ原の戦いで、秀秋は東軍に寝返りました。頼勝は、この決断に深く関わったとされます。

大名として

秀秋の死後、頼勝は家康に仕え、美濃に領地を与えられて大名となりました。

評価

頼勝は、小早川家の家老として関ヶ原の行方を左右する場面に立ち会い、のちに自らも大名となった人物です。

このイラストについて

このイラストは、夜の陣で書状を手にした頼勝を描いています。

書状を持ち、思いをめぐらす姿で、主家の大きな決断に関わった家老の重い立場を表しました。

暗い陣と灯りは、関ヶ原の戦いの前夜をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

小早川家

安芸の国衆だった小早川氏に、毛利元就の三男隆景が養子に入ってからの家。隆景は小早川水軍を率いて毛利家を支え、豊臣秀吉からも信頼されて五大老の一人となった。

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主家

家臣団

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