可児才蔵 | 通称可児才蔵。討ち取った首級の口に笹の葉を含ませたことから笹の才蔵と称された槍の達人

可児才蔵

かに さいぞう

地域東海
所属勢力・属性福島家臣
大名家福島
家紋丸に橘
主武器大槍・笹の葉
衣装・甲冑黒塗実戦具足
武将タイプ笹の才蔵・豪傑
目次

笹の才蔵と呼ばれた豪傑

可児吉長は、戦国時代から江戸時代初期にかけて数々の戦場を駆け抜けた武将であり、その通称である可児才蔵、あるいは笹の才蔵という異名で広く知られ、生涯を槍一筋に生き抜いた豪傑として後世に語り継がれてきた人物である。討ち取った敵の首級に笹の葉を挿してみずからの手柄の証としたという逸話はあまりに名高く、その勇猛な武名は江戸時代を通じて講談や軍記物語のなかで繰り返し語られ、今なお大河ドラマなどでも取り上げられる存在である。

美濃可児氏に連なる出自

才蔵の出自については確かな記録が乏しく諸説が入り交じっているが、一般には美濃国の可児郡を本拠とした一族の出身であり、その地名にちなんで可児の姓を名乗るようになったとする説が最も有力であると伝わっている。才蔵の生年についても諸説があって明確には定まらないものの、おおむね天文年間の生まれとする見方が多く、若い頃から武芸に秀でた資質を示し、やがて一本の槍を頼りに乱世を生き抜く道を志すようになったと考えられている。

宝蔵院流に学んだ槍の技

才蔵の武名を支えた最大の要素は、その卓越した槍術の技量であり、一説には奈良の興福寺の一院で創始された宝蔵院流の槍術を学び、長い柄の槍を用いて鍛え抜かれた突きと払いを自在に操る使い手であったとも伝えられている。宝蔵院流は十文字の穂をもつ槍を用いる流派として名高く、突くだけでなく敵の武器を絡め取る技を得意としたと伝えられ、才蔵はその技を戦場で存分に発揮したとされる。

才蔵は槍を扱う技のみならず、戦場での駆け引きや間合いの見切りにも卓越しており、乱戦のなかにあっても少しも臆することなく敵中へ突き入っては、次々と相手を突き伏せていったと数多くの記録に伝えられている。

多くの主君を渡り歩いた生涯

才蔵の経歴において特筆すべきは、その生涯で実に多くの主君に仕えたという点であり、美濃の斎藤氏を振り出しに、柴田氏や明智氏、前田氏、豊臣氏など、名だたる武将のもとを次々と渡り歩いていったと伝えられている。才蔵が仕える先を次々に変えていった背景には、本能寺の変や主家の滅亡、あるいは合戦の勝敗による大名の浮き沈みといった、戦国末期特有の激しい政変が幾度も繰り返された事情もあったと考えられている。

みずからの武勇を正しく評価してくれる主君を求めて仕える先を変えていくその生き方は、忠義を重んじる後世の価値観からは異端とも映るが、個人の実力がすべてを決した戦国乱世にあっては、むしろ当然の身の処し方であったといえる。

福島正則への仕官

数々の主君のもとを経巡ったのち、才蔵が最終的に腰を落ち着けることになったのが、豊臣秀吉の子飼いの猛将として名を馳せた福島正則の家中であり、正則はその武名を高く買って厚く遇したと伝えられている。正則はもともと豪勇の士を好んで召し抱える気風の持ち主であり、才蔵のような一騎当千の槍使いは、まさに求めてやまない類いの人材であったといえる。槍働きを何よりの誇りとしていた才蔵にとって、同じく武辺一辺倒の気風をもつ正則の家中はよほど肌に合ったものとみえ、以後は正則配下の主だった家臣の一人として、いくさのたびに重きをなしていったのである。

関ヶ原での獅子奮迅の働き

才蔵の生涯における最大の見せ場となったのが、1600年に天下を二分する東西の大軍が激突した関ヶ原の戦いであり、才蔵は福島正則の部隊に属して東軍の先鋒の一角を担い、開戦とともに敵陣へと突撃していった。この一戦において才蔵は獅子奮迅の働きを見せ、みずからの槍だけで十七もの首級を挙げたとも伝えられており、その凄まじいばかりの戦いぶりは、敵味方を問わず居並ぶ将兵を大いに驚嘆させたと語り継がれている。

平素より槍の名手として鳴らした才蔵の面目躍如たる働きであり、この天下分け目の大合戦こそが、彼の武名を不動のものとして天下に知らしめる最大の舞台となったといってよいであろう。

笹の才蔵という異名の由来

関ヶ原の戦いではあまりに多くの敵を討ち取ったため、その首のすべてを持ち運ぶことができず、才蔵はみずからが仕留めた証として、討ち取った首の口もとに笹の葉を一枚ずつ挿していったと伝えられている。首を持ち帰るのは武功の証を示すための当時の慣わしであったが、余りに数が多いために目印を付けるほかなかったという点にこそ、才蔵の並外れた武勇のほどがうかがえるのである。

戦いののち、笹の葉を挿された数多の首が戦場に残されているのを見た人々が、これはことごとく才蔵一人の手柄であると認めたことから、ここに笹の才蔵という勇ましい異名が生まれたと語り継がれている。

晩年と立ち往生の逸話

関ヶ原での大功により、才蔵は戦後に主君正則が新たに与えられた安芸国の広島へと従って移り住み、以後は相応の高禄を食む重臣として遇されながら、槍一筋に生きた生涯の晩年を静かに過ごしたと伝えられている。その死にまつわる逸話もまた豪傑らしく、才蔵は自身の死期を悟ると、往来の道端に立ったままの姿で往き交う人々に見守られながら息を引き取ったとも伝えられ、まさに槍一筋に生きた武人にふさわしい最期であったといえる。

立ったまま往生を遂げたというこの逸話が事実であるか否かは定かではないものの、豪傑才蔵の人物像を語るうえで欠かせない挿話として、長く人々に親しまれてきたのである。

一芸に徹した武辺者の評価

可児才蔵は、華々しい知略や堅実な領国経営によって名を残した武将ではなく、あくまでも一個の槍働きの強さのみによって歴史にその名をとどめた、戦国乱世という時代を象徴する武辺者の一人であったといえる。主君を幾度も変えながらも、みずからの鍛え抜いた武技だけを頼りに乱世を生き抜いたその生涯は、個人の実力こそがすべてであった時代の気風を色濃く映し出しており、笹の才蔵の名は今日なお多くの人々を惹きつけてやまない。

その名は数多くの武将が割拠した戦国の歴史のなかにあってもひときわ鮮烈な印象を残しており、一芸に徹して生き抜くことの凄みを今に伝える好個の例として、末永く記憶されていくに違いない。

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