つの ちかただ
| 地域 | 四国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 長宗我部・津野氏 |
| 大名家 | 長宗我部 |
| 家紋 | 七つカタバミ |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 悲劇・長宗我部四男 |
長宗我部元親の四男(津野氏を継承)。関ヶ原の戦い直後、家中混乱の中で兄・盛親の命(または勘違い)により暗殺された悲劇の若武者。
長宗我部元親の三男
親忠は、土佐の長宗我部元親の三男です。1572年に生まれました。
津野家の養子
親忠は、土佐の西部の国衆である津野家に養子として入り、津野家を継ぎました。
土佐の国衆を取り込む
元親は、子どもたちを土佐の国衆の家に養子として送り込むことで、土佐の支配を固めていきました。
秀吉への人質
1585年、元親が豊臣秀吉に降伏した後、親忠は人質として秀吉のもとに送られたとされます。
兄信親の死
1586年、元親の嫡男である信親が、九州の戸次川の戦いで討死しました。
跡継ぎ問題
信親の死後、元親は四男の盛親を跡継ぎに決めました。親忠や、次男の香川親和を推す家臣もいたため、家中で対立が生まれました。
反対した家臣たち
盛親を跡継ぎにすることに反対した家臣の中には、元親に処罰された者もいました。
幽閉
親忠は、のちに香美郡の岩村に幽閉されたとされます。
関ヶ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親は西軍に加わり、敗れて土佐に戻りました。
久武親直の讒言
このとき、親忠が藤堂高虎と親しく、土佐を奪おうとしているという話が盛親に伝えられたとされます。これは重臣の久武親直の讒言だったともいわれます。
自害
親忠は、盛親の命によって自害させられたと伝えられます。29歳ほどでした。
長宗我部家の改易
兄弟を死に追いやったことが徳川家康の怒りを買い、長宗我部家は所領を取り上げられたとされます。
悲劇の三男
親忠の死は、長宗我部家の滅亡の一因ともなりました。
津野家の歴史
津野家は、土佐の西部の山あいを長く治めた古い家でした。親忠の死によって、その流れも途絶えることになりました。
岩村での幽閉
親忠が幽閉されたとされる土佐の香美郡の岩村は、現在の高知県香南市のあたりにあたります。
藤堂高虎との縁
親忠は、豊臣秀吉への人質として上方にいたころ、藤堂高虎と親しくなったとされます。この縁が、のちに讒言のきっかけとして利用されたと考えられています。
盛親のその後
親忠の死の後、長宗我部盛親は所領を失い、京都で寺子屋を開いて暮らしたとも伝えられます。のちに大坂の陣で豊臣方として戦いました。
親忠の評価
親忠は、長宗我部元親の三男として生まれ、跡継ぎ問題と家臣の讒言によって命を落とした人物です。その悲劇は、長宗我部家の終わりと深く結びついています。
このイラストについて
若い武将が甲冑姿で物思いに沈むように立ち、霧の立ちこめる山城を背にした姿です。
物思いに沈むような表情は、跡継ぎ問題の中で幽閉され、悲劇的な最期を迎えた親忠をイメージしています。背景の霧に包まれた山城は、親忠が継いだ津野家の土佐の山あいの風景を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
土佐の有力な国人「土佐七雄」の一つ。長宗我部国親が一度失った本拠の岡豊城を取り戻し、子の元親が勢力を広げた。元親は1575年の四万十川の戦いで土佐一条氏を破って土佐を統一し、阿波・讃岐・伊予へ攻め込んで四国のほぼ全域に手を伸ばした。
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