小山田頼定 | 伊達政宗の家臣、大崎合戦で戦死

おやまだ よりさだ

地域陸奥国 柴田郡(宮城県大河原町)
所属勢力・属性伊達家臣
大名家伊達家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ猛将・軍奉行

小山田頼定は、伊達政宗に仕えた武将である。通称は筑前で、柴田郡の小山田城(宮城県大河原町)の城主だった。天正16年(1588)の大崎合戦で、中新田城攻めからの退却中に討ち死にした。

目次

小山田城の城主

頼定は伊達家の家臣で、柴田郡小山田(宮城県大河原町)に城を構えていた。地元では「小山田筑前」の名で知られている。

伊達家は、政宗の時代に南奥羽で一気に勢力を広げた。頼定はその中で、家臣団の一員として戦場に出た武将である。家の起こりや親兄弟については、確かな資料が少ない。

小山田城のあった柴田郡は今の宮城県南部にあたり、当時は伊達家の領国の中にあった。

大崎合戦

天正16年(1588)、政宗は北の大崎氏の内紛に介入し、大崎領へ兵を出した。これが大崎合戦である。頼定はこの戦いで軍奉行として出陣したとされる。

伊達軍は2月、大崎方の中新田城(宮城県加美町)を攻めた。城代の南条下総(南條下総)らがよく守り、伊達軍は城を落とせなかった。さらに雪や深い田に行く手を阻まれ、伊達軍は退却を始めた。

大崎氏は、室町時代に奥州探題を務めた名門で、中新田城もその一族の斯波家兼が築いたとされる城である。中新田城は大崎領の南の守りにあたる城だった。伊達軍はここを落として大崎領の奥へ進もうとしたが、思うようには進まなかった。

殿軍での最期

退却する伊達軍に、大崎勢がいっせいに襲いかかった。頼定はその乱戦の中で戦死した。最後尾で敵を食い止める殿(しんがり)を務めて奮戦したが、馬が深田にはまり、討ち取られたとも伝わる。享年は64とする説がある。

大崎合戦は、政宗にとって大きな負けいくさとなった。この戦いを通じて、伊達家は一時、周りの敵に囲まれる苦しい立場に置かれた。

なお、中新田城は天正18年(1590)の奥州仕置で伊達政宗と蒲生氏郷に接収され、その後、廃城になったとみられる。城跡には慶長16年(1611)に長興寺が開かれ、今も続いている。

薬師堂の伝承

頼定の墓は、戦場に近い加美町の薬師堂にあり、町の史跡に指定されている。地元では、戦死した小山田筑前の首を葬り、薬師堂を建てたことが地名の由来になったと伝えられている。敵地で倒れた武将が、その土地の人々によって長く語り継がれてきたことがわかる。

ゆかりの地

  • 小山田筑前の墓(宮城県加美郡加美町字薬師堂):加美町指定史跡。地名の由来とも伝わる
  • 中新田城跡(宮城県加美郡加美町字北町):大崎合戦で伊達軍が攻めた城。加美町指定史跡

参考にした資料

小山田頼定とは

小山田頼定は、伊達家に仕えた武将で、小山田城の城主です。

評価

頼定は、大崎合戦で味方の退却を守って命を落とした伊達家の武将です。

このイラストについて

このイラストは、雨の戦場で、槍を構える頼定を描いています。

力のこもった構えで、殿として敵を食い止めた武将の気迫を表しました。

雨と炎の戦場は、大崎合戦の退却の場面をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

伊達家

陸奥国伊達郡を発祥とする家。伊達稙宗と子の晴宗が争った天文の乱(1542〜48年)で一時は勢力を弱めたが、晴宗・輝宗の代に立て直した。

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主家

家臣団

亘理元宗支倉常長留守政景
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