大崎義隆 | 奥州探題大崎氏の最後の当主、名生城主

おおさき よしたか

地域陸奥国(宮城県北西部)
所属勢力・属性大崎氏(奥州探題)
大名家大崎家
家紋―
主武器采配
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ名門の当主

大崎義隆は、奥州探題をつとめた名門・大崎氏の最後の当主である。伊達政宗と争ったのちその指揮下に入り、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに参加しなかったため領地を失った。

目次

奥州探題・大崎氏の家

大崎氏は、足利氏の一族である斯波氏から分かれた家である。斯波家兼を祖とし、東北地方を治める役目「奥州探題」を代々受け継いだ。

本拠は大崎五郡と呼ばれる宮城県北西部である。室町時代には玉造郡の名生城が探題の役所として使われた。しかし15世紀の終わりごろから力は弱まり、やがて南の伊達氏の影響を強く受けるようになった。

義隆は天文17年(1548)、大崎義直の子として生まれた。名生城を居城とし、この名門の家を継いだ。

家中の内乱と伊達政宗

天正年間、大崎家の中では家臣どうしの争いが起きた。伊達政宗はこの内乱に乗じて大崎領に手を伸ばし、義隆と争った。

義隆は伊達氏と戦ったが、最後は政宗の軍事指揮下に入ることになった。かつて東北の武士をまとめる立場だった大崎氏は、伊達氏に従う立場へと変わったのである。

小田原不参と大崎氏の没落

天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻めた。義隆はこの戦いに参加しなかった。そのため、秀吉の奥州仕置によって大崎五郡の領地を取り上げられた。

大崎氏の旧領は木村吉清に与えられ、名生城も木村氏の城となった。しかし同じ年、新しい領主に反発した大崎・葛西の旧臣たちが立ち上がった。これが葛西大崎一揆である。

名生城は一揆勢に奪われたが、蒲生氏郷が取り返した。氏郷は、伊達政宗が一揆とつながっているのではないかと疑い、この城に立てこもったと伝わる。大崎氏が領地を取り戻すことはなかった。

晩年

領地を失った義隆は、その後ほかの大名のもとに身を寄せたとされる。蒲生氏郷や上杉景勝に仕えたとも伝わるが、くわしいことはわかっていない。

慶長8年(1603)、56歳で亡くなった。名生城の跡は現在、大部分が宅地や水田となっている。昭和55年(1980)の発掘調査でV字形の溝などが見つかり、当時のようすが少しずつ明らかになっている。

ゆかりの地

  • 名生城跡(宮城県大崎市):大崎氏の居城。奥州探題の役所が置かれた

参考にした資料

大崎義隆とは

大崎義隆は、奥州探題を務めた名門・大崎家の当主です。陸奥の大崎地方(今の宮城県北部)を治めました。

奥州探題

奥州探題は、室町幕府が奥州を治めるために置いた役職です。大崎家は、その家柄を誇りとしました。

大崎合戦

天正16年(1588年)、大崎家の内紛をきっかけに伊達政宗が兵を送りましたが、大崎方はこれを退けました。この戦いは大崎合戦と呼ばれます。

奥州仕置

天正18年(1590年)、義隆は小田原に参陣しなかったため、秀吉に領地を取り上げられました。

評価

義隆は、奥州探題の名門を継ぎながら、時代の大きな変化の中で領地を失った当主です。大崎家の歴史は、ここで大きな区切りを迎えました。

このイラストについて

このイラストは、広い平野と城を背に立つ義隆を描いています。

落ち着いた顔つきと、模様の入った衣で、名門の当主としての誇りを表しました。

広がる平野は、大崎家が治めた大崎地方をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

陸奥国人衆

陸奥の中部・北部に根を張った大名や国人たち。葛西氏・大崎氏・和賀氏・稗貫氏などが、伊達氏や南部氏の間でそれぞれの地域を治めていた。

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家臣団

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