尼子晴久 | 尼子経久の孫。尼子家の全盛期を維持し、新宮党の粛清や毛利元就との激突の中で山陰の覇権を争った

あまご はるひさ

地域中国
所属勢力・属性尼子氏
大名家尼子氏
家紋平四つ目結
主武器太刀・采配
衣装・甲冑漆黒具足
武将タイプ英明・苦難
目次

尼子晴久とは

尼子晴久は、祖父の尼子経久から家督を継ぎ、尼子氏の版図を最大にまで押し広げた戦国大名である。毛利元就の吉田郡山城を攻めて手痛い敗北を喫した一方、月山富田城では大内義隆の大軍を撃退している。名将とも凡将とも評価が分かれてきた人物である。幕府から八か国の守護に補任され、尼子氏はこのとき名実ともに山陰山陽の覇者となった。しかし四十七歳で急死し、その死から五年で尼子氏は滅ぶ。晴久の生涯を順に追っていく。

祖父からの家督相続

晴久は永正十一年(1514年)、尼子政久の子として生まれた。祖父は「謀聖」と称された尼子経久である。本来なら父の政久が家督を継ぐはずであったが、政久は晴久が幼い頃に阿用城の攻略中に討死した。経久は嫡孫である晴久を後継と定める。初名は詮久といい、後に将軍足利義晴から一字を賜って晴久と改めた。天文六年(1537年)頃、八十歳に達した経久から正式に家督を譲られる。

晴久は二十四歳であった。偉大すぎる祖父の跡を継ぐという立場は、決して楽なものではない。家中には経久を慕う古参が多く、若い当主の采配には常に比較の目が向けられた。晴久が家督相続後すぐに大規模な遠征を企てたのも、自らの力を示す必要があったからであろう。

吉田郡山城の敗北

天文九年(1540年)、晴久は三万ともいわれる大軍を率いて安芸へ侵攻した。目標は毛利元就の居城である吉田郡山城である。毛利氏はかつて尼子方であったが、大内氏へ転じていた。晴久にとっては裏切り者を討つ戦であり、同時に安芸を制圧する好機でもあった。城兵はわずか三千程度。数のうえでは尼子方の圧勝が見込まれた。ところが元就は城下の町を焼き払って城に籠もり、地の利を活かした奇襲を繰り返す。

尼子方は消耗していった。冬を越えた天文十年正月、大内義隆が陶隆房に一万余の援軍を率いさせて到着する。挟撃を受けた尼子軍は総崩れとなった。晴久はかろうじて出雲へ逃げ帰った。この敗戦は尼子氏の威信を大きく損ない、安芸の国人が一斉に毛利方へ靡く契機となる。若い当主が自らの力を示すために起こした戦が、逆に権威を失わせた。晴久にとって最も苦い記憶であった。

第一次月山富田城の戦い

天文十一年(1542年)、大内義隆は反攻に転じ、尼子氏の本拠である月山富田城へ大軍を差し向けた。毛利元就ら安芸の国人も従軍し、大内軍は数万に達したとされる。尼子氏にとって存亡の危機であった。晴久は籠城を選び、山城の堅固さを最大限に活かした。同時に、大内方に付いていた出雲の国人へ調略の手を伸ばす。翌天文十二年、三沢氏や三刀屋氏といった出雲の有力国人が次々と尼子方へ寝返った。大内軍は補給と退路を脅かされる。

進退窮まった義隆は撤退を決断した。その退却戦は悲惨をきわめ、多くの将兵が失われる。毛利元就も命からがら逃げ延びたと伝えられる。この勝利で晴久は面目を回復した。祖父譲りの調略を的確に用いた点で、彼の力量が最もよく表れた戦いである。さらに大内義隆はこの敗戦を機に軍事への意欲を失い、後の陶隆房の謀反を招いた。晴久の防衛戦は西国の勢力図を動かしたことになる。

八か国守護

天文二十一年(1552年)、晴久は室町幕府から八か国の守護に補任された。出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後。祖父が実力で押さえていた地域が、公的な権威として認められたことになる。経久の「十一カ国太守」が後世の誇張であるのに対し、この八か国守護は幕府の記録に残る事実である。晴久は実力による支配を、制度上の正統性で裏打ちしようとした。これは祖父にはなかった発想である。この時期が尼子氏の最盛期であった。晴久は守護としての権威を背景に、家中の統制強化にも乗り出していく。

新宮党の粛清

天文二十三年(1554年)、晴久は叔父にあたる尼子国久と、その子の誠久ら新宮党の主だった者を粛清した。新宮党は尼子軍最強と称された一族の精鋭部隊である。その武勇は近隣に鳴り響いていた。通説では、毛利元就の謀略によって晴久が疑心を煽られ、みすみす自軍の主力を失ったとされてきた。尼子氏が衰退した最大の原因として、長くこの粛清が挙げられてきたのである。

しかし近年の研究では見方が変わりつつある。一族が独立した軍事力を持つ状態は、当主の支配を不安定にする。国人領主の連合体という古い体制から、当主に権力を集中させる近世的な体制へ移行するために、避けられない措置だったという評価である。実際、粛清の後も尼子氏は石見銀山を確保するなど攻勢を維持している。少なくとも即座に弱体化したわけではない。

石見銀山をめぐる攻防

晴久の外交と軍事の焦点は、石見銀山にあった。大永年間に本格的な開発が始まったこの銀山は、当時世界有数の産出量を誇り、明との貿易における決済手段として莫大な富を生んだ。銀は鉄砲や火薬の購入に直結する。銀山を握ることは、軍事力そのものを握ることであった。尼子・大内・毛利の三者は、この銀山をめぐって何度も争奪を繰り返した。所有者は目まぐるしく入れ替わっている。

天文二十年(1551年)に大内義隆が陶晴賢に討たれ、弘治元年(1555年)の厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を破ると、情勢は一変する。晴久はこの混乱に乗じて石見へ進出し、弘治二年頃には銀山を掌握した。尼子氏の版図はこのとき最大となる。しかし毛利元就もまた大内の旧領を吸収して急速に膨張していた。両者の全面衝突は避けられない情勢となる。

急死

永禄三年(1560年)十二月、晴久は月山富田城において急死した。享年四十七。死因は不明である。急な病であったとされるが、詳しい記録は残っていない。この死は尼子氏にとって決定的であった。毛利元就との全面対決を目前にして、当主を失ったのである。家督を継いだのは子の尼子義久であった。しかし父ほどの力量はなく、家中をまとめきれない。

晴久の死からわずか一年後、毛利元就は石見銀山を奪回し、そのまま出雲へ侵攻を開始する。永禄九年(1566年)、月山富田城は開城した。晴久の死から六年、尼子氏は戦国大名として滅亡する。あと十年、あるいは五年でも晴久が生きていれば、中国地方の勢力図は違っていたかもしれない。

評価の変遷

晴久の評価は、時代とともに大きく揺れ動いてきた。江戸期から近代にかけては、否定的な見方が主流であった。吉田郡山城で大敗し、新宮党を粛清して自軍を弱め、尼子氏衰退の元凶となった当主という像である。祖父の経久が「謀聖」と称えられ、孫の代で滅んだという構図のなかで、晴久は落差を際立たせる役回りを与えられてきた。しかし近年は再評価が進んでいる。第一次月山富田城の防衛は見事な調略の勝利であり、八か国守護の補任は実際に得た地位である。

新宮党粛清も、当主権力の集中という近世的な方向への一歩として捉え直されている。晴久の不運は、毛利元就という戦国屈指の傑物と同時代に、同じ地域で向き合わねばならなかったことに尽きる。そして何より、四十七歳という早すぎる死であった。時間さえあれば、体制の再編を完成させていた可能性は十分にある。

祖父との比較

経久と晴久を比べると、二人の資質の違いがはっきりと見えてくる。経久は拡大の人であった。調略で切り崩し、恩賞で繋ぎとめ、国人領主の連合を膨張させていく。晴久は整理の人であった。幕府から守護職を得て支配の正統性を整え、一族の独立勢力を解体して当主に権力を集める。経久のやり方は速いが脆く、晴久のやり方は遅いが堅い。

時代が求めていたのは、実は晴久の方向であった。毛利元就が国人衆を段階的に自らの家臣として組み込み、両川体制で一族を統制したのも、同じ課題に対する回答である。晴久は正しい方向へ舵を切りながら、それを完成させる時間を与えられなかった。彼の生涯は、そういう惜しさを含んでいる。

晴久ゆかりの地をたどる

島根県安来市の月山富田城跡は、晴久が大内義隆の大軍を退けた城である。山中御殿から七曲りを登れば、大軍が攻めあぐねた理由が身体で分かる。広島県安芸高田市の吉田郡山城跡は、晴久が大敗を喫した地である。城跡には毛利元就の墓所もあり、両者の明暗を同じ場所で辿れる。島根県大田市の石見銀山遺跡は世界遺産に登録されている。晴久が生涯をかけて争った富の源泉を、坑道跡とともに見ることができる。松江市の洞光寺には尼子氏の墓所があり、経久とともに一族が眠る。新宮谷には新宮党館跡が残り、晴久が粛清した一族の拠点を偲ぶことができる。

晴久が受け継いだ尼子氏

晴久が家督を継いだ時点の尼子氏は、外から見れば絶頂にあった。祖父の経久が築いた勢力圏は山陰全域と山陽の一部に及び、従属する国人領主は数えきれない。しかし内実は脆かった。従属した国人はそれぞれ自らの所領と兵を持ち、尼子氏の直轄領は決して大きくない。つまり尼子氏の力とは、国人領主が従っているという状態そのものであった。彼らが離れれば、実体はほとんど残らない。

吉田郡山城の敗北がこれほど深刻だったのは、負けたこと自体ではなく、負けた姿を国人衆に見られたからである。晴久が守護職の獲得や新宮党の粛清に向かったのは、この構造を作り替えようとしたためであろう。従属ではなく支配へ。連合ではなく組織へ。晴久の二十四年は、その転換に費やされたと見ることができる。

晴久の戦い方

晴久の用兵には、はっきりとした型がある。攻めるときは大軍で押し、守るときは城に籠もって敵の内部を切り崩す。祖父から受け継いだ調略の技を、防衛戦で最も効果的に使った。第一次月山富田城の戦いは、その典型である。籠城しながら敵陣営の国人に手を伸ばし、寝返らせて補給を断つ。逆に攻勢に出たときは苦戦することが多かった。

吉田郡山城でも、遠征先で持久戦に持ち込まれて消耗している。山陰の険しい地形は守りには有利だが、大軍を遠方へ送り込むには不向きであった。晴久の戦績は、その地理的条件をそのまま映している。攻めの経久、守りの晴久。二人を並べると、尼子氏という勢力の性格がよく見えてくる。

大内氏の滅亡がもたらしたもの

晴久の後半生を大きく動かしたのが、西の大敵である大内氏の自壊であった。大内義隆は第一次月山富田城の敗戦を機に軍事への意欲を失い、文化と学問に傾倒していく。山口は西の京と称されるほど栄えたが、家中の武断派の不満は募った。天文二十年(1551年)、重臣の陶隆房が謀反を起こし、義隆は自刃する。西国随一の大名家は、内側から崩れた。晴久にとってこれは好機であった。長年争ってきた相手が消え、石見や備後への進出路が開ける。

ところが同じ好機を、安芸の毛利元就も掴んでいた。元就は弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を討ち、大内の旧領を一気に吸収する。つまり大内氏の滅亡は、尼子氏の敵を一つ減らしたのではなく、より手強い敵を一つ育てたことになる。三者が牽制し合っていた均衡が崩れ、尼子と毛利の一騎打ちという構図が生まれた。晴久の晩年は、この新しい情勢との格闘であった。

晴久が遺したもの

晴久は滅亡の当主ではない。彼が没した時点で、尼子氏はまだ八か国の守護であり、石見銀山を押さえていた。失ったのは、体制を作り替える時間だけであった。祖父の遺産である広大な勢力圏を、四十七年の生涯でどうにか保ち、制度と組織の面では前進させた。それが晴久の仕事である。後世が彼を凡将と見なしてきたのは、比較の相手が悪すぎたからでもある。

祖父は経久、宿敵は元就。この二人に挟まれて凡庸に見えない当主のほうが稀であろう。月山富田城の七曲りを登り、そこから出雲平野を見渡せば、大内の大軍を退けた男の視点に立てる。晴久の名は、その勝利とともに記憶されてよい。

尼子家中という組織

尼子氏の家臣団は、大きく三つの層からなっていた。第一が一族衆である。新宮党を率いた尼子国久のように、当主に次ぐ軍事力を持つ者もいた。血縁ゆえに信頼できる反面、力を持てば脅威にもなる。第二が譜代の家臣である。亀井氏、佐世氏、湯原氏といった家が代々仕え、実務を担った。山中幸盛の山中家もこの層に属する。第三が従属した国人領主である。三沢氏、三刀屋氏、赤穴氏など、出雲各地に根を張った勢力で、独自の所領と兵を保持していた。

第三層の去就が、尼子氏の命運を握っていた。彼らが従えば大勢力となり、離れれば一夜にして瓦解する。晴久が第一次月山富田城の戦いで勝てたのは、大内方に付いていた三沢氏らを寝返らせたからである。逆に滅亡の際は、同じ国人衆が毛利方へ流れた。この構造を変えようとしたのが、晴久の新宮党粛清であり、守護職の獲得であった。彼は自らの家の弱点を、正確に理解していたことになる。

晴久の時代の山陰

晴久が生きた十六世紀半ばの山陰は、決して辺境ではなかった。石見銀山が世界有数の産出量を誇り、出雲ではたたら製鉄によって良質の鉄が生み出されていた。銀と鉄、いずれも当時の戦争経済を支える資源である。日本海の交易路も活発で、若狭や越前を経て畿内とつながり、大陸との交易にも開かれていた。尼子・大内・毛利が執拗に山陰を争ったのは、この富があったからにほかならない。晴久の外交と軍事は、突き詰めればこの資源をめぐる争いであった。彼が八か国守護という肩書きを求めたのも、その支配を公的に確定させるためであろう。

尼子晴久という当主は、拡大の時代から維持の時代へ移る境目に立っていた。祖父のやり方は通用しなくなり、新しいやり方はまだ完成していない。そのはざまで、彼は八か国の守護という到達点にたどり着いた。滅亡が続いたために評価は低く据え置かれてきたが、山陰の覇者であった事実は動かない。若くして家督を継ぎ、大敗を経験し、それでも祖父の遺産を守り抜いて世を去る。四十七年の生涯は、決して凡庸なものではなかった。もし晴久が十年長く生きていたら、毛利元就の出雲侵攻はあれほど順調には進まなかったであろう。

歴史に仮定は禁物だが、そう思わせるだけの実績を彼は残している。祖父の名声と孫の悲劇に挟まれて霞んできた当主だが、尼子氏が最も大きかったのは、まぎれもなく晴久の時代であった。安来から松江へ抜ける道を走れば、尼子氏が守り抜こうとした出雲の地形が見えてくる。山が海に迫り、平野は限られ、道は谷筋を縫う。晴久の戦い方は、この土地が決めたものであった。

当図鑑内の関連武将

晴久に家督を譲った祖父が尼子経久、跡を継いで降伏したのが子の尼子義久である。粛清した叔父が尼子国久とその子尼子誠久であった。生涯の宿敵が毛利元就吉川元春、争い続けた西国の雄が大内義興大内義隆、そして大内を討った陶晴賢。滅亡後に再興を目指した尼子勝久山中幸盛。あわせてご覧いただきたい。

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