尼子義久 | 尼子晴久の長男。毛利元就の怒濤の出雲侵攻に対し月山富田城で籠城するも降伏。尼子家戦国大名としての歴史を閉じた

あまご よしひさ

地域中国
所属勢力・属性尼子氏
大名家尼子氏
家紋平四つ目結
主武器太刀・数珠
衣装・甲冑重臣具足
武将タイプ悲壮・滅亡
目次

尼子義久とは

尼子義久は、戦国時代末期の出雲国月山富田城を本拠とし、山陰から山陽にかけて一大勢力を誇った戦国大名尼子氏を率いた当主であり、事実上その最後の当主として歴史に名を刻んだ人物である。祖父は下剋上によって尼子氏の全盛を築いた尼子経久、父は山陰山陽に広く覇を唱えた尼子晴久であり、義久はその名門の三代目として、いわば栄光と重責の双方を一身に背負って生まれた立場にあった。しかし父晴久の急死により若くして家督を継いだ義久は、勢いに乗る安芸の毛利元就の猛烈な侵攻を受け、居城月山富田城を長期の兵糧攻めに囲まれた末、永禄9年(1566年)についに降伏を余儀なくされた。

戦国大名としての尼子氏はここに滅亡し、義久自身は弟たちとともに毛利氏に身柄を預けられて安芸で余生を送ることになるが、その生涯は一族の栄華と没落の縮図として、今なお多くの人々の関心を集めている。

尼子氏の興り 祖父経久が築いた栄光

尼子氏はもともと出雲守護代をつとめる家柄にすぎなかったが、義久の祖父にあたる尼子経久が、謀略と忍耐を駆使して主家の守護京極氏の影響を排し、下剋上によって出雲一国を実力で掌握していった。経久は月山富田城を一度は追われながらも策略でこれを奪還したと伝わり、その卓越した権謀術数から後世に謀聖と称され、一代で尼子氏を山陰屈指の勢力へと押し上げた傑物であった。

最盛期の経久は出雲を中心に周辺の諸国へと勢力を広げ、いわゆる十一ヶ国の太守と称されるほどの版図を築いたとも伝えられ、その名は中国地方の武将たちに広く畏れられた。義久が受け継いだのは、こうした祖父経久が半生をかけて築き上げた広大な家門であり、彼の背には常に偉大な先祖の影がつきまとっていたといってよい。

父晴久の全盛と八カ国守護

経久の跡を継いだのが義久の父である尼子晴久であり、晴久は祖父の遺業をさらに拡大させ、一時は出雲や隠岐をはじめとする山陰山陽の広い範囲に守護職を得て、尼子氏の勢威を頂点にまで高めた。晴久は安芸の毛利元就と激しく争い、天文9年(1540年)から翌年にかけての第一次月山富田城の戦いでは、攻め寄せた大内方の大軍を退けて居城を守り抜くなど、武名を大いにとどろかせた。

室町幕府からも重んじられた晴久は、山陰山陽の実に八カ国もの守護に補任されたと伝わり、その権勢はまさに尼子氏の絶頂を象徴するものであった。義久はこうした勢いの盛んな時代に生を受けており、幼い頃の彼にとって尼子氏の未来はなお洋々たるものに映っていたにちがいない。

尼子氏に落ちた影 新宮党の粛清

尼子氏の栄光の裏で、家中には後の没落につながる深刻な亀裂が生じていた。その象徴が、天文23年(1554年)に父晴久が断行した一族の精鋭軍団新宮党の粛清である。新宮党は経久の次男である尼子国久とその子誠久を中心とした武断派の軍団で、尼子氏最強とうたわれる武勇を誇る一方、家中でしばしば傲慢に振る舞い、当主の権限にまで介入したと伝わる。その独立した勢力を危険視した晴久は、家中の統一を図るべく突如として国久を討ち、誠久らも自害に追い込んで新宮党を壊滅させ、これによって出雲一国の直接支配をほぼ手中にしたとされる。

一説には毛利元就の離間の策が背後にあったともいわれるが、これは後年の創作の可能性が高い。いずれにせよ最強の親族衆を失ったことは、後の尼子氏の弱体化に暗い影を落とすことになった。

義久の生い立ちと将軍からの一字

尼子義久は天文9年(1540年)、晴久の嫡男として生まれた。ちょうど父が居城を大軍から守り抜いた戦いの年にあたり、尼子氏の武運が盛んな時代に世に出た若君であった。幼名は三郎四郎と伝わり、名門の後継者としてしかるべき教育を受けて育ったと考えられるが、その少年時代についての確かな史料は必ずしも多く残されていない。元服にあたっては、室町幕府第13代将軍足利義輝からその名の一字である義を賜り、義久と名乗ったと伝わる。

これは尼子氏が中央の将軍家からも重んじられる存在であったことを示している。将軍からの偏諱は当主としての権威を高めるものであったが、後から振り返れば、それは傾きはじめた大家を背負う若者への、いささか重すぎる看板でもあった。

永禄三年の家督相続 若き当主の重責

永禄3年(1560年)の暮れ、父晴久が居城月山富田城で急死する。まだ壮年というべき年齢での突然の死であり、これによって義久は二十歳をわずかに過ぎたばかりで尼子氏の家督を継ぐことになった。先代晴久の急逝は尼子氏にとって大きな痛手であった。晴久はその強い統率力によってようやく家中をまとめていたのであり、その重石が突然失われたことで、内外の緊張が一気に表面化しはじめた。

若き義久は、広大ではあるものの内に不安を抱えた領国を受け継ぐことになり、外には勢いに乗る毛利元就という強敵を迎えていた。まさに前途多難な船出であったといえる。父ほどの経験も武名も持たぬ義久にとって、この家督相続は誉れであると同時に、耐えがたいほどの重責でもあったと想像される。

揺らぐ領国 毛利元就という宿敵

義久が家督を継いだ頃、中国地方の勢力図は大きく塗り替わりつつあった。かつて尼子氏と並び立った大内氏は家臣の陶氏の下剋上によって混乱し、その陶氏をも安芸の毛利元就が滅ぼして急速に台頭していた。毛利元就は少ない兵で大軍を破った厳島の戦いなどを経て中国地方の覇者へとのし上がり、その矛先は今や旧敵尼子氏の本国である出雲へと向けられようとしていた。

元就はかつて晴久の月山富田城攻めで手痛い敗北を喫した経験を持ち、尼子氏を容易ならぬ相手と見て、力攻めを避け、調略と包囲を組み合わせた周到な戦略で臨もうとしていた。経験の浅い義久にとって、この老練かつ執念深い元就こそが、尼子氏の命運を左右する最大の宿敵となっていったのである。

石見銀山をめぐる攻防と本城常光の離反

尼子氏と毛利氏の争いの焦点の一つが、莫大な富を生む石見銀山であった。銀山は両者にとって戦費を支える生命線であり、その争奪は中国地方の覇権そのものに直結する重大事であった。永禄5年(1562年)、石見において尼子方の重要な立場にあった本城常光が毛利氏へ寝返ると、尼子方の石見での拠点は次々と揺らぎ、銀山周辺の支配は毛利氏の手へと傾いていった。

有力な国人の離反は、単に一つの城が失われる以上に、周囲の在地勢力に対して尼子氏の退勢を強く印象づけ、動揺の連鎖を生む深刻な打撃であった。こうして外縁の防衛線が崩れていくなか、毛利軍の圧力はいよいよ尼子氏の本国出雲そのものへと及ぼうとしていた。

白鹿城の戦い 出雲の玄関口の陥落

出雲へ攻め込んだ毛利元就がまず狙いを定めたのが、月山富田城の北方を守る要衝白鹿城であった。この城は日本海側からの玄関口にあたり、本城を守る前衛として極めて重要な位置を占めていた。永禄6年(1563年)8月、毛利軍は白鹿城へ総攻撃を仕掛けたが、城兵の抵抗は激しく、堅い守りを容易には崩せなかった。元就は力攻めの困難を悟り、別の手立てを講じることになる。

毛利軍は石見銀山から呼び寄せた坑夫を用いて坑道を掘り進め、城内の水源を絶とうと試みたと伝わる。銀山を制した者ならではの、鉱山技術を戦に転用した執拗な攻め方であった。尼子方は月山富田城から救援を送ったものの敗れ、孤立した白鹿城はついに10月に降伏する。出雲の玄関口を失ったことで、本城月山富田城はいよいよ裸同然にさらされることとなった。

月山富田城 難攻不落の要塞

尼子氏の本拠月山富田城は、標高のある月山の地形を巧みに取り込んだ山城で、天然の要害と幾重もの曲輪によって守られた、当時屈指の堅固な城郭として知られていた。この城はかつて父晴久の代に、攻め寄せた大内方の大軍をも退けた実績を持ち、まさに難攻不落の名にふさわしい要塞であった。義久もまた、この城に一族の命運を託すこととなる。

険しい地形ゆえに正面から力で攻め落とすのは至難であり、攻める側にとっては、いかにして城内の兵糧と士気を尽きさせるかが最大の課題となった。老練な元就はこの城の堅さを誰よりもよく理解していた。ゆえに彼が選んだのは、時間をかけて包囲し、城そのものを内側から干上がらせる、非情な長期戦の道であった。

第二次月山富田城の戦い 包囲の始まり

白鹿城をはじめとする周辺の支城を次々に攻略した毛利元就は、いよいよ尼子氏の心臓部である月山富田城へと軍を進め、いわゆる第二次月山富田城の戦いの幕が切って落とされた。元就は複数の方面から城を取り囲み、包囲網を幾重にも張りめぐらせて、外部からの援軍や物資の流入を徹底して遮断する構えをとった。城はしだいに広大な世界から切り離されていった。

永禄8年(1565年)の春、毛利軍は一度は総攻撃を試みたものの、堅固な城の守りは容易には破れず、力攻めによる早期の決着は難しいことが改めて明らかとなった。そこで元就は方針を切り替え、無理な突撃を控えて包囲を維持し、城内の兵糧が尽きるのを辛抱強く待つ、徹底した兵糧攻めへと戦い方を転じていった。

兵糧攻め 元就の非情な長期戦

毛利元就は海上をも封鎖して補給の道を断ち、鉄砲隊を海岸線に配して物資の搬入を許さなかった。こうして月山富田城は、陸も海もことごとく閉ざされた孤島のような状態に置かれていった。包囲が長引くにつれ、城内では蓄えていた兵糧が目に見えて減っていき、飢えと疲労が将兵の心身を容赦なくむしばんでいった。城の内側では、目に見えぬ苦しみが日ごとに募っていった。

元就は当初、投降してくる者をあえて処刑することで、城内の兵糧を早く尽きさせようとしたとも伝わる。それはまさに、敵の心を折ることを狙った冷徹な計算であった。やがて冬を迎える頃、元就は一転して降伏を認める旨の高札を立てたという。逃げ場を失った城兵たちは、その報せに引き寄せられるように次々と城を離れはじめた。

宇山久兼の誅殺 内部崩壊の悲劇

追い詰められた尼子方の内部では、疑心暗鬼が渦を巻いていた。その中で起きたのが、忠臣宇山久兼の誅殺という、尼子氏の滅亡を決定づけたともいえる悲劇であった。宇山久兼は私財を投じてひそかに城内へ兵糧を運び入れるなど、窮乏する籠城軍を陰で支えていた忠義の臣であったと伝わる。まさに、傾く家を必死に支える柱の一人であった。ところが永禄9年(1566年)のはじめ、義久はこの久兼に謀反の疑いありとする讒言を信じ込み、忠臣であるはずの彼を誅殺してしまう。

若い当主の判断は、致命的な過ちとなった。頼みの忠臣を自ら手にかけたことで、城内の士気は一気に崩れ落ちたと伝わる。この事件は、外からの攻めよりもむしろ内なる不信が尼子氏を蝕んでいたことを、痛ましく物語っている。

譜代家臣の離反と開城への道

宇山久兼の誅殺は、かろうじて保たれていた尼子方の結束に決定的な亀裂を入れた。忠臣すら疑って殺す当主のもとに命を預ける気力を、多くの将兵が失っていったのである。城内の兵糧がいよいよ底をつくと、投降者はうなぎのぼりに増え、ついには尼子氏を代々支えてきた譜代の家臣までもが、次々と城を抜け出して毛利方へ下るようになった。長きにわたる包囲と飢えは、名門の結束を内側から静かに、しかし確実に溶かしていった。

かつて経久や晴久のもとに集った忠勇の士たちの姿は、もはや城内に多くは残っていなかった。こうして月山富田城は、外を厚く囲まれ、内を空にされて、抗う力そのものをじわじわと奪われていった。開城の時は、もはや避けようのないところまで近づいていた。

降伏と戦国大名尼子氏の滅亡

もはや抵抗の術を失った義久は、ついに降伏を決意する。永禄9年(1566年)11月、義久は毛利元就に降り、名城月山富田城の門を開いた。開城の時、城に残っていた兵はわずか三百余りであったと伝わる。降伏にあたっては、元就の子である吉川元春と小早川隆景が、義久ら尼子一族の生命を保証する血判の起請文を交わしたと伝わり、これによって義久兄弟は命を助けられた。

祖父経久が一代で築き、父晴久が広げた戦国大名尼子氏は、ここに事実上滅亡した。かつて山陰山陽に覇を唱えた名門の落日は、多くの武将に世の無常を強く印象づけたことであろう。義久が愚将であったと断ずるのは酷であろう。祖父父と続いた重圧、新宮党粛清以来の家中の不安、そして老獪きわまる元就という相手を思えば、その敗北は時代の大きな流れの中にあったといえる。

安芸幽閉の日々 弟たちとともに

城を出た義久は、弟の倫久や秀久とともに毛利氏の領国である安芸へと送られ、その地の寺に身柄を預けられて、監視のもとで幽閉の日々を送ることになった。かつて数カ国に号令した名門の当主が、いまや異国の一室で静かに時を過ごす身となったのであり、その胸中には、言葉に尽くしがたい無念と悔恨が去来していたにちがいない。幽閉にあたっては、宇山誠明や本田家吉といったわずかな直臣が義久につき従ったと伝わる。

落魄の主君を見捨てずに寄り添った家臣の存在は、暗い日々のなかの数少ない救いであったろう。とはいえ、命を保証された義久の処遇は、戦国の敗将としてはむしろ穏やかなものであった。毛利氏は義久を丁重に扱い、そのことが後の一族の存続へとつながっていくことになる。

山中幸盛と尼子再興軍 義久の関わらぬ戦い

尼子氏が滅んだ後も、その再興を諦めない者たちがいた。その筆頭が、忠臣として名高い山中幸盛、すなわち山中鹿介である。彼は主家の再興に生涯を捧げた武将として、後世に語り継がれている。幸盛らは、経久の曾孫にあたる尼子勝久を一度は僧籍から還俗させて新たな旗頭に擁立し、旧臣を糾合して各地で尼子再興のための兵を挙げた。困難な道を承知のうえの、執念の戦いであった。天正5年(1577年)頃、再興軍は織田信長方の羽柴秀吉の麾下に入って播磨の上月城を得たが、翌天正6年(1578年)、毛利の大軍に囲まれて城は落ち、勝久は自刃、幸盛も護送の途上で斬られて志半ばで倒れた。

ただし、この一連の再興運動に、幽閉の身にあった義久自身は関与していない。旗印として担がれたのはあくまで別系統の勝久であり、義久は静かに歴史の表舞台から退いたままであった。

晩年 毛利の客分「友林」として

長い幽閉の年月を経て、義久の処遇はしだいに緩やかなものへと変わっていった。天正17年(1589年)には、毛利輝元から一族の客分として遇され、安芸国志道に居館を与えられたと伝わる。かつての宿敵の家に客分として身を寄せるという境遇は複雑なものであったろうが、義久は与えられた立場を静かに受け入れ、波乱の生涯の後半を穏やかに過ごしていったようである。慶長元年(1596年)には剃髪して出家し、友林と号したと伝わる。

俗世の栄枯盛衰をくぐり抜けた老武将にとって、仏門に入ることは心の安らぎを求める自然な帰結であったのかもしれない。そして慶長15年(1610年)、義久はおよそ七十年の生涯を静かに閉じた。享年は71と伝わる。戦国の激動を生き抜いた最後の当主は、争いの去った時代の中でその目を閉じたのである。

子孫の存続と人物評価

戦国大名としての尼子氏は義久の代で滅んだが、血脈そのものは絶えなかった。義久には男子がなかったため、弟倫久の子である尼子元知が家督を継ぎ、尼子の名跡は後の世へと受け継がれていった。その子孫は毛利氏、のちの長州藩に仕える家として存続したと伝わり、かつて山陰に覇を唱えた名門の血は、かたちを変えながら近世を通じて命脈を保ち続けた。義久はしばしば、大家を滅ぼした暗愚な当主として語られることがあるが、それはやや一面的な評価であろう。

彼が背負ったのは、新宮党粛清以来ひずみを抱えた家門と、あまりに老獪な元就という難敵であった。偉大な祖父経久や父晴久の影に立ち向かいながら、時代の大波の中で名門の終焉を見届け、なお血脈を後世へ残した義久の生涯は、栄光と落日の双方を映す鏡として、静かな余韻を今に伝えている。

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