おおうち よしおき
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大内氏 |
| 大名家 | 大内氏 |
| 家紋 | 唐花 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 豪華具足 |
| 武将タイプ | 覇者・上洛 |
西国に覇を唱えた守護大名 大内義興
大内義興は周防と長門を本拠として西国一円に勢力を張った守護大名であり、応仁の乱後の混迷した時代にあって大内氏の全盛期をきずきあげた人物として広く知られている。みずから大軍をひきいて都へのぼり、京を追われた前将軍足利義稙を奉じて幕府の実権をにぎった経歴は、地方の大名としてはまさに破格のものであった。北九州から山陰にまでおよぶ広大な版図を背景に、日明貿易を掌握して莫大な富をたくわえ、本拠の山口を西国の京と呼ばれる文化都市へと成長させたのも義興の功績である。
戦国という言葉がまだ生まれたばかりのこの時代に、地方の守護大名がここまで中央政界を動かした例はほとんどなく、義興はその意味でも際立った存在といえる。
名門大内氏と義興の出自
大内氏はもともと百済の王族の血をひくと自称した周防の在庁官人の家柄で、南北朝の動乱をへて周防長門の守護へと成長し、西国屈指の大身大名にのしあがった名門であった。義興は1477年、応仁の乱で東西両軍を相手に奮戦したことで名を高めた父大内政弘の嫡男として京の地に生まれ、幼名を亀童丸と称したと伝えられている。父政弘は乱の後に領国へもどって周防長門をはじめ豊前や筑前にまで支配をおよぼし、山口の城下町を整備して大内文化のいしずえを築いた傑物であり、義興はその大きな遺産をうけつぐことになった。
将軍足利義尚から一字を賜って義興と名のったといわれ、生まれながらに幕府と密接な関係をもつ家に育ったことが、のちの上洛という大事業の背景となっている。
若き当主としての家督相続
1494年ごろ、父政弘の死とともに義興は十代なかばの若さで大内氏の家督をうけつぎ、周防長門を中心とする広大な領国の当主としての重責を担うことになった。家督の交代にあたっては陶氏や内藤氏といった有力な重臣が処断されるなど不穏な動きもあり、家中の主導権をめぐって何らかの政変があったのではないかと考える研究者も少なくない。
若き当主にとって、代々仕える宿老たちをおさえて自身の統率力を確立することは、対外的な戦いにおとらぬ重い課題であった。義興はこうした難しい船出をのりこえ、みずからの権威を家中に浸透させながら、やがて西国全域へと目を向けていくことになる。
北九州への進出と少弐氏との攻防
家督をついだ直後の義興が直面したのは、大内氏が古くから権益をもつ北九州の情勢であり、なかでも筑前や肥前に根をはる少弐氏との抗争は避けてとおれないものであった。義興はみずから軍を動かして少弐氏を攻め、電光石火の進撃でこれを追いつめるなど、若い当主とは思えぬ果断な軍略をみせて初陣をかざったと伝えられている。
北九州は大陸との交易の玄関口である博多をようする経済の要衝であり、この地を制することは大内氏の富の源泉をおさえることに直結する重大な意味をもっていた。さらに豊後の大友氏など周辺の大名とも複雑な駆けひきをくりひろげながら、義興は九州における大内氏の優位をしだいに固めていったのである。
明応の政変と足利義稙の亡命
中央では管領細川政元が1493年に将軍足利義稙を廃して足利義澄を擁立するという明応の政変がおこり、幕府の権威は大きくゆらいで諸国の争乱に拍車をかけていた。将軍の座を追われた足利義稙は各地を流浪したすえ、やがて西国に強大な力をもつ大内義興をたよって周防の山口へと身をよせることになった。義興は流浪の前将軍をあたたかく迎えいれてこれを手厚く庇護し、みずからの本拠に将軍をいただくという、他の大名にはまねのできない政治的な立場を手にした。
この足利義稙の来訪は、のちに義興を都の政界の中心へとおしあげる決定的なきっかけとなり、大内氏の運命を大きく左右する出来事となったのである。
義稙を奉じての大上洛
専横をきわめた細川政元が1507年に家臣に暗殺されて細川氏が分裂すると、京の政情はにわかに流動化し、義興にとって足利義稙を将軍に復帰させる好機がおとずれた。1508年、義興は足利義稙を奉じて周防長門はもとより安芸や石見の国人衆をもふくむ数万といわれる大軍をひきい、堂々と都をめざして進撃を開始した。
堺にあった細川高国と手をむすんで京へせまると、将軍足利義澄と細川澄元はこれをささえきれずに近江へと逃れ、義興はほとんど戦わずして入京をはたした。地方の守護大名がこれほどの大軍を都へ送りこんで政権を転覆させた例はまれであり、この大上洛は西国における大内氏の実力を天下にしめす壮挙となった。
足利義稙の将軍復帰と管領代就任
1508年の夏、足利義稙は義興らにおしたてられて念願の将軍職に復帰をはたし、ここに義興を後ろだてとする新たな幕府体制がうちたてられることになった。義興はその功によって左京大夫の官職をあたえられ、さらに管領代として幕政を実際にとりしきる立場につき、名実ともに将軍をささえる最大の実力者となった。管領は本来細川氏など三管領の家柄がつとめる役職であったが、周防の守護にすぎなかった義興がその代役として中央政治の中枢にすわったことは、異例中の異例であった。
将軍足利義稙にとって義興はまさに命づなであり、両者はたがいをよりどころとしながら、いくどもおとずれる政変の危機をともにのりこえていくことになる。
細川氏との抗争と船岡山の合戦
義興を後ろだてとする幕府に対し、近江へ逃れた足利義澄と細川澄元はたびたび京の奪還をくわだて、都のまわりでは激しい攻防がくりかえされた。1511年には一度は義興らが京を追われて劣勢におちいる場面もあったが、義興は態勢をたてなおして反撃に転じ、京の北にそびえる船岡山を舞台とする決戦にのぞんだ。この船岡山の合戦で義興は細川澄元の軍勢を打ちやぶって京をふたたび制圧し、みずからの軍事的な力量を世にしめして幕府内における地位をゆるぎないものとした。
たびかさなる戦いを勝ちぬいたことで、義興は将軍足利義稙をささえる不動の柱としての名声を確立し、西国の雄の実力を都びとに強く印象づけたのである。
十年におよぶ在京と幕政の掌握
義興は上洛してからおよそ十年という長い歳月を都にとどまり、管領代として将軍足利義稙をたすけながら、揺れうごく幕政の運営に深くかかわりつづけた。本拠の周防を遠くはなれての長期の在京は、義興の軍事力と経済力があってはじめて可能となったものであり、大内氏の底ぢからをまざまざとしめすものであった。
しかしその一方で、当主が長く領国を留守にすることは、周辺の勢力に付けいるすきをあたえることにもなり、山陰や安芸の情勢はしだいに不穏の度をましていった。義興は都にありながらもたえず本国の動向に神経をとがらせねばならず、中央の栄光と領国の不安のあいだで大きな苦労を強いられることになった。
朝廷での栄達と公卿への列座
幕政における功績によって義興は朝廷からも重んじられ、官位をつぎつぎと進めて1512年には従三位にのぼり、地方の守護大名としては破格の公卿の列にくわわった。公卿となることは単なる名誉にとどまらず、大内氏の家格を天下に認めさせ、周防の一大名が中央の貴顕とならぶ存在であることを公式に示す大きな意味をもっていた。
義興は都で公家や寺社ともさかんに交わり、その洗練された都ぶりの文化を身につけて、のちに本拠の山口へと持ち帰る素地をこの在京の日々に養った。こうして義興は武力のみならず官位と文化の両面においても、西国の他の大名を圧倒する権威をきずきあげていったのである。
勘合貿易の掌握と博多
大内氏の強大な財力をささえたのは、明との正式な国交にもとづく勘合貿易であり、義興はこの利益の大きい交易の権益をおさえて莫大な富を手中におさめた。貿易には明の発行する勘合と呼ばれる証票が必要であり、これをめぐって細川氏など他の勢力とも激しく争ったが、義興は交易の拠点である博多をおさえて優位を確保した。
明からもたらされる銅銭や生糸や陶磁器は西国の市場を潤し、大内氏はその富をもって大軍を養い、長きにわたる在京の莫大な費用をもまかなうことができた。経済の力こそが政治と軍事の力を根底からささえるという道理を、義興は勘合貿易の掌握をとおしてみごとに体現してみせたといえる。
西国の京と呼ばれた山口の繁栄
義興の代にいたって、本拠の山口は西国の京とうたわれるほどの繁栄をみせ、応仁の乱で荒廃した都をのがれてきた多くの公家や僧侶や文化人でにぎわった。碁盤の目のように整えられた町割りには寺社や邸宅がたちならび、大陸との交易でもたらされた品々が市を彩り、山口は政治と経済と文化のあらゆる面で西国随一の都市へと成長した。
戦乱で都の暮らしを失った貴顕たちは、平穏で豊かな山口にあらたな安住の地をもとめ、みずからの学問や芸能をこの地に伝えて大内文化の隆盛をうながした。義興のきずいたこの繁栄は、のちに子の大内義隆の時代にいたって最盛期をむかえ、山口の名は西国の文化の中心として広く知られることになる。
大内文化の花ひらく
山口にあつまった文化人たちのもとで和歌や連歌や絵画や学問がさかんに花ひらき、都の雅と大陸の文物とがまじりあった独特の大内文化がこの地に育まれていった。義興は都で身につけた洗練された趣味を領国にもたらし、寺社の造営や芸能の保護に力をそそいで、武人でありながら文化の庇護者としての一面もあわせもっていた。
のちの時代には大陸から渡来した人々や宣教師までもがこの地をおとずれ、山口は日本の西のはてにありながら世界にひらかれた国際的な都市としての性格をもつにいたった。こうした文化の土壌は一朝一夕に生まれたものではなく、父政弘から義興、そして義隆へとうけつがれた三代にわたる営みのうえに花ひらいたものであった。
長い留守を突く尼子経久の台頭
義興が都で幕政に忙殺されているあいだ、出雲では守護代の家柄から身をおこした尼子経久が急速に力をたくわえ、山陰一円へとその勢力をひろげつつあった。尼子経久は謀略と武略をあわせもつ傑物として知られ、しだいに石見や安芸の国人衆にも手をのばして、大内氏の勢力圏に真正面からいどむ手ごわい競合者となった。
当主が遠く京にあって領国をあけている大内氏にとって、この尼子経久の台頭はまさに背後を脅かす深刻な問題であり、義興は都にありながら心を痛めつづけた。西国の覇権をめぐる大内氏と尼子氏の対立はこうしてしだいに先鋭化し、以後長きにわたって両家は中国地方をふたつに割って争うことになるのである。
安芸の国人衆と若き毛利元就
安芸国は大内氏と尼子氏という二大勢力のはざまにあって、数多くの国人領主が去就をさだめかねる不安定な地であり、両家の勢力争いのまさに前線となっていた。そうした安芸の国人のひとつが毛利氏であり、のちに稀代の智将として名をはせる若き日の毛利元就も、この大内氏と尼子氏のはざまで自家の生き残りをはかっていた。
義興は安芸の国人衆をみずからの陣営につなぎとめようとつとめ、毛利氏をはじめとする諸領主に影響をおよぼして、尼子経久の伸張をふせぐ手だてをこうじた。のちに中国地方を統一する毛利元就も、その出発点においては大内義興という大きな後ろだてのもとで力をたくわえたのであり、両者の縁はあさからぬものであった。
有田中井手の戦いと武田氏
義興の在京中、安芸では尼子方に通じる武田氏が勢力をのばし、大内方の国人衆を圧迫して、この地の情勢は一触即発の緊張をはらむにいたった。1517年、安芸の武田元繁が毛利氏らのまもる城にせまると、若き毛利元就はこれを有田中井手に迎えうち、みずから武田元繁を討ちとるという大きな武功をあげた。
この戦いは毛利元就の名を世に知らしめた出世のいとぐちとなったとともに、大内方の勢力が安芸において尼子方をおしかえす重要な転機ともなった。義興が都にあってなお安芸の国人衆をたばねる大内氏の枠組みが機能していたことを、この一戦はよくものがたっているといえよう。
周防への帰国と領国の再建
おびただしい年月を都についやし、幕政の重責と領国の不安のあいだで疲弊した義興は、1518年ついに管領代の職をしりぞいて本拠の周防へと帰国する決断をくだした。将軍足利義稙をながく支えてきた義興の帰国は、都の政界にとって大きな痛手であり、後ろだてを失った幕府はふたたび不安定の淵へとしずんでいくことになった。
国もとにもどった義興を待ちうけていたのは、留守のあいだに尼子経久が食いあらした領国の乱れであり、義興はただちに勢力の立てなおしに全力をそそがねばならなかった。中央の栄華に別れをつげて領国経営に専心した晩年の義興の姿は、西国の大名としての本分にたちかえった一箇の武将のいさぎよさを感じさせるものであった。
尼子経久との終わりなき対峙
帰国後の義興にとって最大の敵はやはり尼子経久であり、安芸や石見の領有をめぐって両者は一進一退のはげしい攻防をくりかえし、いずれも決定的な勝利をおさめられなかった。義興は重臣の陶興房らをもちいて尼子方の勢力とわたりあい、みずからも軍をひきいて安芸へ出陣するなど、老いてなお西国の覇権をかけた戦いに身をなげうった。
尼子経久もまた老獪な戦略家であり、両雄はたがいに知略のかぎりをつくして争いつづけたが、結局のところどちらか一方が相手を屈服させることはついになかった。西国の二大巨頭が生涯にわたってしのぎをけずったこの対立は、やがてつぎの世代へとひきつがれ、中国地方の勢力図を大きくうごかしていくことになる。
晩年の領国経営と信仰
晩年の義興は都でつちかった経験を領国の統治にいかし、家臣団の統制や交易の振興につとめて、大内氏の支配を周防長門を核にいっそう堅固なものへとかためていった。また信仰にも篤く、神社仏閣の造営や寄進に力をそそいだと伝えられ、山口の地には義興ゆかりの社寺の跡が数かぎりなく残されているという。
武勇と知略をかねそなえた良将としての義興の評判は領国のすみずみにまでゆきわたり、家臣や領民からも仁徳をそなえた当主として深く慕われていた。中央の政界を動かした栄光の日々をへて、義興は西国の一大名としての務めをまっとうしながら、その生涯の終わりへとしずかに歩みをすすめていったのである。
義興の死と子義隆への継承
尼子氏との戦いのさなか、義興は1528年の暮れに周防の山口で病にたおれ、五十二年の波瀾にみちた生涯をとじ、西国に君臨した巨星はここについにその輝きを失った。義興のきずいた広大な領国と莫大な富、そして西国最大級の大名としての地位は、嫡男である大内義隆へとうけつがれ、大内氏はさらなる隆盛のときをむかえることになった。
子の大内義隆は父の遺産をうけて安芸や石見へと勢力をひろげ、山口の文化をいっそう爛熟させて大内氏の最盛期をきずいたが、その治世はやがて思わぬ悲劇へとむかっていく。父義興が武と政の両面で家名を高めたのに対し、義隆の代にいたって大内氏は内部からゆらぎはじめ、栄華の頂点はやがて没落の序章へと転じていくのである。
大内義興の歴史的な評価
大内義興は、応仁の乱後の混迷した時代にあって前将軍足利義稙を奉じて上洛をとげ、管領代として幕政をにぎった、地方大名としては空前絶後の経歴をもつ武将であった。勘合貿易の掌握による莫大な富、西国の京とうたわれた山口の繁栄、そして尼子経久や毛利元就らと切りむすんだ中国地方の覇権争いのなかに、その存在の大きさがよくあらわれている。
武勇と知略をかねそなえ、仁徳をもって家臣や領民に慕われた良将として、義興は大内氏の全盛期をきずいた名君として後世に高く評価されている。戦国という新たな時代の幕あけにあって、中央と地方をむすびつけながら西国に一大王国をつくりあげた大内義興の生涯は、この時代を語るうえで欠かすことのできない一頁をなしているといえよう。



































