なべしま なおしげ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 龍造寺・鍋島氏 |
| 大名家 | 龍造寺 |
| 家紋 | 丸に抱き杏葉 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒具足 |
| 武将タイプ | 知謀・英明 |
龍造寺隆信の義弟。沖田縄の戦い後の混乱した龍造寺家を支え鍋島佐賀藩の礎を築いた。
- 天文7年(1538年)生まれ。龍造寺隆信の従弟で義弟(継母が隆信の母)。隆信の重臣として今山の戦いなどで活躍した
- 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで隆信が戦死すると龍造寺家の実権を握り、秀吉からも国政を任された
- 関ヶ原後に家を守り抜き、子の勝茂が初代佐賀藩主に。直茂は「藩祖」と呼ばれる。元和4年(1618年)没
肥前の礎を築いた鍋島直茂
鍋島直茂(なべしま なおしげ)は、肥前(現在の佐賀県・長崎県)の戦国大名・龍造寺氏の重臣で、のちに佐賀藩・鍋島家の礎を築いた名将です。主君・龍造寺隆信を支え、その肥前統一の事業を軍事・政略の両面から支えた、まさに龍造寺の柱石でした。
隆信の右腕として
「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信の急速な勢力拡大は、義兄弟でもあった鍋島直茂の智略に負うところが大きいものでした。直茂は数々の合戦で武功を挙げるとともに、家中の統制や外交にも手腕を発揮しました。
沖田畷の敗戦と、その後
天正12年(1584年)、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討ち死にすると、直茂は動揺する龍造寺家中をよくまとめ、島津氏の侵攻や豊臣政権への対応を一身に担いました。幼い当主を後見するかたちで、実質的に肥前を差配したのです。
龍造寺から鍋島へ
やがて肥前の統治権は、龍造寺氏から重臣の鍋島氏へと正式に移り、直茂の子・勝茂が初代佐賀藩主となります。鍋島直茂の生涯は、主家を支えながら新たな大名家の礎を築いた、戦国から近世への転換を体現するものでした。
龍造寺隆信の片腕
直茂は肥前佐賀の鍋島清房の子として生まれた。父の清房が龍造寺隆信の母・慶誾尼を後妻に迎えたため、直茂は隆信の従弟であると同時に義理の弟ともなった。
元亀元年(1570年)、大友氏の大軍が佐賀を囲んだ今山の戦いでは、直茂が夜襲を指揮して大友方の本陣を破った。以後、直茂は「肥前の熊」と呼ばれた隆信の片腕として、龍造寺氏が九州北部に勢力を広げるのを支えた。
沖田畷のあと、龍造寺家の実権を握る
天正12年(1584年)、隆信は島原の沖田畷で有馬晴信・島津氏の連合軍と戦って討ち死にした。当主となった龍造寺政家のもとで、直茂が家の実権を握るようになる。
天正15年(1587年)の九州征伐のあと、秀吉は政家に肥前の所領を認めるとともに、直茂にも領地を与え、国の政治を任せた。文禄・慶長の役では加藤清正の二番隊に加わって朝鮮に渡っている。
関ヶ原を乗り切り、佐賀藩の祖に
慶長5年(1600年)の関ヶ原では、子の鍋島勝茂がはじめ西軍についたが、直茂は徳川方に通じ、戦後は立花宗茂の柳川城を攻めて降伏させるなどして挽回し、所領を守り抜いた。
慶長12年(1607年)、龍造寺家の当主だった龍造寺高房が亡くなると、勝茂が名実ともに初代佐賀藩主となった。直茂は藩祖として、今も佐賀の松原神社に祀られている。
化け猫騒動の伝承
龍造寺家から鍋島家へ実権が移ったことは、のちに「鍋島の化け猫騒動」の物語を生んだ。江戸時代後期の歌舞伎や講談で広まった創作で、史実ではない。高房が失意のうちに亡くなった出来事が、その下地になったとされる。
鍋島直茂をめぐる人物
ゆかりの地
- 佐賀城跡(佐賀市城内):佐賀藩の居城。佐賀県立佐賀城本丸歴史館がある
- 高伝寺(佐賀市本庄町):鍋島家の菩提寺。直茂と妻・陽泰院の墓がある
- 松原神社(佐賀市):直茂を「日峯さん」として祀る神社
- 鍋島直茂誕生地(佐賀市本庄町):直茂が生まれた地。胞衣塚が残る
この人物をもっと知る本
- 【評伝】岩松要輔『鍋島直茂』(戎光祥出版・シリーズ実像に迫る):直茂の実像を最新研究でコンパクトにたどる






















