あまかす かげもち
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 上杉家臣 |
| 大名家 | 上杉 |
| 家紋 | 丸に三つ柏 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・堅実 |
甘粕景持とは
甘粕景持は、越後を拠点として関東や信濃へ幾度も出兵した戦国大名の上杉謙信に仕えた武将で、主家が窮地に陥るたびに最も危険な前線へ身を置き、退く味方の背を守り抜いた忠勇の人として、限られた史料の中でもその名を後世へ確かに残してきた人物である。史料が乏しいため生年や正確な出自には不明な点が多いものの、上杉家中で越後や信濃をめぐる数々の合戦に加わり、とりわけ第四次川中島の戦いで殿軍として見せた奮戦によって、上杉家を代表する猛将の一人として広く知られるようになったと伝わる。
主君・上杉謙信という存在
上杉謙信は、越後を統一して守護代の家柄から身を起こし、私利ではなく義を重んじる姿勢と、味方を巧みに動かす抜群の用兵によって「軍神」とも「越後の龍」とも称された、生涯を通じて戦国乱世を駆け抜けた屈指の名将である。謙信は生涯にわたって、みずからの領土を広げる切り取りよりも大義や道理、秩序の回復を掲げて各地へ出兵を重ね、関東では小田原の北条氏と、そして北信濃をめぐっては甲斐の武田氏と、幾度となく干戈を交えることになった稀有な武将であった。
そのように義を旗印として掲げる主君のもとで、甘粕景持をはじめとする家臣たちは、目先の勝敗や損得を超えて主家のために命を賭す覚悟を養い、上杉軍に特有の強い結束と高い士気を、いくつもの戦場で幾度も発揮していったと伝わる。
宿敵・武田信玄と信濃をめぐる争い
一方で上杉方の宿敵となった武田信玄は、甲斐を本国としながら信濃へと着実に勢力を広げ、巧みな調略と堅実きわまりない戦術、そして精強な家臣団によって版図を大きく拡大した、東国でも屈指の実力を誇る戦国大名であった。信玄が北信濃をほぼ手中に収めて越後との境に迫ったことで、本領を追われた信濃の国衆たちは義を掲げる謙信を頼って救援を求め、こうして越後と甲斐の両雄は、千曲川と犀川に挟まれた川中島の地で正面から激突する宿命を負うことになったのである。
第四次川中島の戦いの始まり
上杉と武田による川中島の戦いは、1553年から1564年にかけて前後五度に及んだと伝わるが、そのなかでも最も多くの死傷者を出した最大の激戦として後世に知られるのが、1561年に起きた第四次川中島の戦いであった。この戦いにおいて謙信は、みずから一万を超える兵を率いて武田方の拠点である海津城を見下ろす妻女山へと大胆に布陣し、対する信玄もまた大軍を率いて容易には動かず、両軍は張りつめた緊張の中で幾日もにらみ合いを続けたと伝わる。
この膠着した状況を打ち破ろうとした信玄は、軍勢を二手に分け、一方の別働隊に夜陰へ乗じて妻女山を奇襲させて上杉勢を平地へ追い落とし、待ち受ける本隊とで挟み撃ちにするという、いわゆる啄木鳥の戦法を採ったと伝えられている。
激戦となった本隊の衝突
ところが武田方の動きをいち早く察知したとされる謙信は、夜のうちに密かに軍勢を妻女山から下ろし、立ちこめる朝霧に紛れて千曲川を渡ると、別働隊を待つばかりで手薄になっていた信玄の本隊へ、全軍をあげて猛然と襲いかかったと伝わる。まったく不意を突かれた武田本隊は序盤で大きく崩れ、信玄の弟である武田信繁や軍師とも伝わる山本勘助ら名だたる将をつぎつぎと失う深い痛手を受け、川中島の一帯は両軍が入り乱れて刃を交わす凄惨な白兵戦の場と化したのである。
殿軍という最も危険な役目
やがて妻女山を空しく攻めた武田の別働隊が急ぎ戦場へと引き返してくると、いったんは優勢だった上杉軍も次第に数で圧されて形勢は逆転し、謙信は損害を抑えるため全軍を越後へ向けて整然と退かせる決断を迫られたと伝わる。このとき、勢いに乗って追撃してくる武田の大軍をただ一手で引き受け、味方の本隊が川を渡って安全に退き切るまで最後尾に踏みとどまって戦い続ける、殿軍という最も危険でありながら最も名誉ある役目を託されたのが、甘粕景持であったと伝わる。
そもそも殿軍とは、退却という混乱の局面にあって常に敵と正面から向き合い、味方が遠ざかるほどにみずからは孤立して全滅の危険が高まっていく役目であり、抜きん出た剛勇と最後まで崩れない冷静さを兼ね備えた将にしか務まらない重責であった。
犀川で武田軍を食い止めた武功
殿軍を任された景持は、越後へ通じる犀川のほとりに手勢を巧みに布いて追い来る武田勢を待ち受け、川を渡ろうとする敵へ何度も激しく攻めかかっては押し返し、流れを血で染めるほどの凄まじい奮戦を見せて敵の足を止めたと伝わる。この景持の身命を賭した奮戦によって、勢いづいていた武田軍の追撃は犀川の線でついに完全に食い止められ、その間に謙信の率いる上杉本隊は、それ以上の大きな損害を受けることなく無事に越後へと引き揚げることができたのである。
味方全体の危機をただ一身に背負って支えきったこの働きは、まさに殿軍の鑑とも評すべき見事な武功であり、甘粕景持というひとりの武将の名を、上杉家を代表する猛将として後世に長く強く印象づけることになったと伝わる。
景持を支えた上杉家中の同僚たち
景持が身を置いた上杉家中には、知略と武勇に優れた家臣が数多くひしめいており、内政と軍略の両面から主家を支えた直江氏や、上杉随一の剛勇とうたわれた柿崎景家など、個性豊かな将たちが軍神と称された謙信を囲んでいたと伝わる。甘粕景持もまたそうした上杉の精鋭の一角として確かに重んじられ、川中島の殿軍に象徴されるように、味方が浮き足立つ危急の場面でこそ真の価値を発揮する頼もしい将として、主君の厚い信任を得ていたものと考えられている。
複数の「甘粕」をめぐる諸説
なお、同じ時代の上杉家中には「甘粕」の名を名乗る者が複数いたとされ、川中島で殿軍を務めた人物についても、後年に別の場面で活躍が伝わる甘粕氏と同一人物なのか、それとも一族の別人なのかをめぐって、古くからいくつかの説が語られている。こうした史料そのものの少なさゆえに、甘粕景持という人物像の細部には今なお確定しがたい部分が少なからず残るものの、犀川での鮮やかな殿軍の武功そのものは、上杉方の勇戦ぶりを象徴する逸話として長く語り伝えられてきたのである。
後世へ語り継がれる猛将
甘粕景持の生涯は、華やかな逸話が数多く残る同時代の武将たちに比べれば、確かな形で伝わる事跡は決して多くはないものの、たった一度の殿軍という働きが主家全体の命運を大きく左右した点にこそ、この武将の際立った価値があると言える。退く味方を守るためにみずからは最後まで戦場へ踏みとどまるという殿軍の姿は、まさに義を旗印として掲げた上杉家の気風そのものであり、甘粕景持という一人の武将は今日もなお、その気高い象徴として静かに語り継がれているのである。









































