山吉景長 | 御館の乱で木場城を守った豊守の子

やまよし かげなが

地域甲信越
所属勢力・属性上杉家臣(山吉豊守の子)
大名家上杉
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ堅実・忠義

上杉氏の家臣。謙信の側近山吉豊守の子で、兄盛信の急死を受けて13歳で家督を継いだとされる。御館の乱では景勝方として木場城を守り、新発田重家の乱でも戦功を挙げた。上杉氏の会津・米沢移封に従い、慶長16年に没した。

目次

山吉家の家督を継ぐ

山吉景長(やまよし かげなが)は上杉氏の家臣である。父は上杉謙信の側近として知られた山吉豊守。景盛とも称したとされる。生年は永禄8年(1565)とする説があるが、確かではない。

天正5年(1577)に豊守が死去すると、嫡男の盛信が家督を継いだが、まもなく急死した。そこで弟の景長が跡を継いだ。13歳で、叔父景久の後見を受けたとされる。当主の死が続き、景長も若年だったため、山吉家は所領を減らされ、三条城から木場城へ移された。

御館の乱と新発田重家の乱

天正6年(1578)、謙信の死後に上杉景勝と上杉景虎が家督を争う御館の乱が起きた。景長は景勝方に付き、木場城を守った。

天正9年(1581)に新発田重家が景勝に背くと(新発田重家の乱)、景長は景勝方として新潟津(新潟の港)をめぐる攻防に加わった。この戦いで新発田方の新発田駿河守盛喜を討ち取ったとされる。

豊臣政権下と晩年

その後も景勝に従い、佐渡の本間氏攻めでは先陣を務めたとされる。天正18年(1590)の小田原征伐では八王子城攻めに加わった。文禄・慶長の役では母衣武者(主君の近くで伝令や護衛を務める武者)として参陣したとされる。

上杉氏の会津移封、さらに米沢への移封にも従い、慶長16年(1611)に没した。子に景寿・景次・景親がいたとされる。

ゆかりの地

  • 木場城跡(新潟市):減封後の山吉家の拠点。御館の乱で景長が守った。

山吉氏

山吉氏は、越後の三条城を本拠とした一族で、長尾家・上杉家の重臣として仕えました。山吉豊守は、謙信の側近として外交などで活躍しました。

三条城

三条城は、今の新潟県三条市にあった城です。信濃川の水運を押さえる場所にあり、越後の中部の要でした。

上杉景勝

景長が仕えた景勝は、謙信の養子で、御館の乱を制して上杉家を継ぎました。のちに豊臣政権の五大老の一人となりました。

会津・米沢へ

上杉家は、慶長3年(1598年)に会津へ、関ヶ原ののちには米沢へ移りました。家臣たちも、主家とともに越後を離れました。

山吉豊守

豊守は、謙信の側近として外交や政治で活躍した人物で、山吉家の名を高めました。

越後の水運

信濃川や阿賀野川などの大きな川が流れる越後では、川の水運が物や人の行き来を支えていました。

評価

景長は、上杉家の重臣・山吉家を継ぎ、越後の内乱から豊臣政権の時代までを生きた武将です。

このイラストについて

このイラストは、雪の残る山城を背に立つ景長を描いています。

落ち着いた表情と、緑の衣をのぞかせた甲冑で、上杉家を支えた重臣の家の当主らしさを表しました。

雪の積もる山と城は、越後の冬の景色をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

上杉家

越後守護代・長尾氏の出身である長尾景虎(上杉謙信)が、1561年に関東管領上杉憲政から上杉の名跡と管領職を譲られて始まった戦国大名の上杉家。謙信は信濃の川中島で武田信玄と五度にわたって対陣し、たびたび関東へ出兵して北条氏とも争った。晩年には加賀の手取川で織田軍を破っている。

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主家

家臣団

上杉憲政柿崎景家
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