ひさたけ ちかのぶ
| 地域 | 土佐 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 長宗我部氏家臣(家老) |
| 大名家 | 長宗我部家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 智将 |
久武親信は長宗我部元親の重臣で、通称は内蔵助。長宗我部家の古くからの家臣の家に生まれ、佐川城主となった。のちに伊予攻めをまかされる軍代となったが、天正7年(1579)、伊予の岡本城攻めで討死した。
譜代の家老・久武家
久武家は、長宗我部氏が土佐に根を下ろした頃から仕えてきたと伝わる譜代の家臣である。中内氏・桑名氏とともに長宗我部家の三家老とされ、そのなかでも筆頭の立場にあったという。
親信の父は久武昌源(親定とも)である。弟には久武親直がいた。生まれた年ははっきりしない。
長宗我部家は、土佐の国人から四国の大部分を従える大名へと急成長した家である。その成長を支えたのが、久武家のような古くからの家臣たちであった。親信もまた、元親の勢力拡大を最前線で支えた一人である。
佐川城主から伊予軍代へ
元亀2年(1571)ごろ、元親は土佐の高岡郡北部へ兵を進めた。親信もこれに加わり、松尾(佐川)城主の中村信義の娘を妻として、佐川城をあずかったとされる。佐川城主となったのを永禄12年(1569)とする資料もある。
天正5年(1577)、伊予方面の攻めを担っていた元親の弟・吉良親貞が亡くなった。そこで親信が伊予軍代に任じられ、南伊予の宇和郡・喜多郡へ攻め入り、城主たちを次々と従わせていった。元親から深く信頼されていたことがわかる。
南伊予は土佐の西に接し、西園寺氏をはじめ多くの小さな領主が城を構えていた土地である。元親にとって伊予攻めは、四国の統一に向けた大事な一歩だった。その指揮を任されたことは、親信が家中で特に重く見られていたことを示している。
岡本城での討死と弟への心配
天正7年(1579)、親信は西園寺氏の領地である宇和郡三間郷へ攻め入り、岡本城を攻めた。しかし大森城主の土居清良の策にかかり、5月21日に討死したとされる。
親信は弟の親直の性格を心配していたと伝わる。自分が死んでも弟には家督を継がせないよう、元親に願っていたという。しかし親信の死後、親直は元親の側近として重く用いられた。
親直はのちに長宗我部家の跡継ぎ争いなどに深くかかわったとされ、その評価は分かれる。親信の願いはかなわなかったことになる。
親信の死は、長宗我部氏の伊予攻めにとって大きな痛手となった。
ゆかりの地
- 佐川城跡(高知県高岡郡佐川町):親信が城主をつとめた城。松尾城とも。
- 岡本城跡(愛媛県宇和島市三間町):親信が攻め、討死した城。
参考にした資料
久武親信とは
久武親信は、長宗我部家の譜代の家老・久武家の当主です。
佐川城主
親信は、土佐の佐川城を任されました。
伊予の軍代
親信は、長宗我部家の伊予攻めで軍代として軍を率いました。
岡本城での討死
天正7年(1579年)ごろ、親信は伊予の岡本城を攻めた際に討死したと伝えられます。
弟への心配
親信は、死の前に弟の親直の人柄を心配し、重く用いないよう元親に伝えたという話が残っています。
評価
親信は、長宗我部家の家老として伊予攻めを率い、その途中で命を落とした武将です。
このイラストについて
このイラストは、山城を背に立つ親信を描いています。
紺色の甲冑と落ち着いた表情で、長宗我部家の家老としての重みを表しました。
霧の立つ山と城は、親信が攻めた伊予の山城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
土佐の有力な国人「土佐七雄」の一つ。長宗我部国親が一度失った本拠の岡豊城を取り戻し、子の元親が勢力を広げた。元親は1575年の四万十川の戦いで土佐一条氏を破って土佐を統一し、阿波・讃岐・伊予へ攻め込んで四国のほぼ全域に手を伸ばした。
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