戸次川の戦いをわかりやすく解説|仙石秀久はなぜ島津に大敗したのか — 釣り野伏せ・長宗我部信親の討死

戸次川の戦い 島津の釣り野伏せに敗れる豊臣先遣隊

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる九州征伐。その緒戦で、豊臣方が手痛い大敗を喫した戦いがありました。戸次川(へつぎがわ)の戦いです。軍監・仙石秀久の無謀な采配によって、四国の勇将たちが次々と散ったこの悲劇の一戦を、史実にもとづいて追っていきます。

戸次川の戦いの基本データ
いつ天正14年(1586年)12月12日
どこ豊後国・戸次川(大分市、現在の大野川)
誰と誰豊臣方の先発隊(仙石秀久・長宗我部元親・信親・十河存保ら) vs 島津家久
結果島津方の大勝。長宗我部信親・十河存保が討死
この後翌年、秀吉・秀長の本隊による九州征伐へ
目次

戸次川の戦いを3行でいうと

  • 九州で勢いを増す島津に対し、秀吉は仙石秀久を軍監とする四国勢の先遣隊を豊後へ送った
  • 仙石は本隊を待たずに戸次川を渡って攻めることを主張し、島津家久の伏兵にかかって大敗した
  • 長宗我部元親の嫡男・信親と十河存保が討ち死にし、長宗我部家の運命も大きく変わった

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島津の九州席巻と豊臣の介入

天正14年(1586年)、薩摩の島津氏は、耳川・沖田畷の戦いで大友・龍造寺を破り、九州のほぼ全域を制する勢いを見せていました。追い詰められた豊後の大友宗麟は、天下人・豊臣秀吉に救援を求めます。秀吉は、本隊による九州征伐に先立ち、四国勢を中心とする先遣隊を豊後へと送り込みました。

この先遣隊に加わったのが、長宗我部元親・信親父子や、十河存保(そごう まさやす)ら四国の武将たちでした。そして、その軍監(監督役)を務めたのが仙石秀久(せんごく ひでひさ)です。彼らの役目は、あくまで豊臣本隊が到着するまで戦線を維持することにありました。

渡河をめぐる軍議の対立

冬の戸次川を渡河して島津軍へ向かう四国勢
仙石秀久の主張で戸次川の渡河を強行する四国勢(イメージ)

天正14年12月、島津家久の軍が、大友方の鶴賀城を攻めます。これを救援すべく、豊臣先遣隊は戸次川(大野川)のほとりに布陣しました。ここで、川を渡って攻めるか否かをめぐり、軍議は割れます。

歴戦の長宗我部元親は、「豊臣本隊の到着を待ち、軽々しく川を渡って決戦を挑むべきではない」と慎重論を唱えました。しかし軍監・仙石秀久は、功を焦って渡河による積極攻勢を強硬に主張します。監督役である仙石の意見が押し通され、先遣隊は川を渡って島津軍に決戦を挑むことになりました。

島津の「釣り野伏せ」

島津軍を率いる島津家久は、島津得意の戦法「釣り野伏せ(つりのぶせ)」を仕掛けていました。わざと退いて敵を深追いさせ、伏せておいた兵で三方から包囲殲滅するこの戦法は、耳川でも沖田畷でも大友・龍造寺を破った、島津必勝の型です。

川を渡って前進した豊臣先遣隊は、まさにこの罠に誘い込まれました。退く島津勢を追ううちに、三方から伏兵の猛攻を受け、たちまち総崩れとなります。川を背にした不利な地形も災いし、先遣隊は壊滅的な打撃を被りました。

島津の伏兵に囲まれながら大太刀を振るう若武者のイラスト
戸次川の戦い。島津の伏兵に囲まれた長宗我部信親は、最後まで戦って討ち死にした(イラスト)

※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

長宗我部信親・十河存保の討死

この戦いで、豊臣方は多くの将兵を失いました。とりわけ痛ましかったのが、長宗我部元親の期待の嫡男・長宗我部信親の討死です。文武に秀でた信親は、長宗我部家の未来を担う若武者でしたが、乱戦のなかで壮絶な最期を遂げました。享年二十二と伝えられます。

また、衰えゆく三好一族を支えてきた勇将・十河存保も、この戦いで討ち死にしました。四国きっての武将たちが、軍監の無謀な采配によって、あたら命を散らしたのです。一方、当の仙石秀久は戦場を離脱して讃岐へ逃げ帰り、この失態によって秀吉の怒りを買い、所領を没収されて改易となりました。

敗戦がもたらしたもの

戸次川の敗戦により、島津軍は勢いに乗って豊後をさらに席巻します。しかし、その勢いも長くは続きませんでした。翌天正15年(1587年)、いよいよ豊臣秀吉・秀長兄弟が率いる二十万を超える本隊が九州へと上陸し、島津氏は圧倒的な物量の前に降伏へと追い込まれていくのです。(九州征伐の全体像は、「九州征伐をわかりやすく解説」でくわしく紹介しています。)

そして、嫡男・信親を失った長宗我部元親の悲しみは深く、この戦いを境に、名君と謳われた元親は人が変わったように振る舞うようになったとも伝えられます。戸次川の戦いは、豊臣の天下統一の過程で生じた悲劇であると同時に、一人の英雄の運命をも大きく暗転させた一戦だったのです。

仙石秀久のその後 — 改易と、小田原での復活

秀吉の命令にそむいて大敗を招いた仙石秀久は、讃岐の領地を取り上げられました(改易)。しかも秀久は、味方を置いて真っ先に戦場から逃げ、四国の讃岐まで戻ってしまったといわれ、「三国一の臆病者」とあざけられたと伝わります。

しかし秀久はあきらめませんでした。天正18年(1590年)の小田原征伐に、浪人の身ながら徳川家康の口添えで参陣し、鈴を縫いつけた派手な陣羽織を着て奮戦します。この手柄で秀吉に許され、信濃の小諸に5万石を与えられて大名に返り咲きました。大失敗から立ち直った武将として、今も人気のある人物です。

長宗我部元親の悲しみと、家の行く末

元親は、22歳の嫡男・信親を戸次川で失いました。信親は文武にすぐれた若武者で、元親が誰よりも期待をかけていた跡継ぎでした。元親は島津家に使いを送って信親の遺骸を引き取り、手厚く葬ったと伝わります。

信親を失ったあとの元親は、人が変わったようだったといわれます。元親は、兄たちを差しおいて四男の盛親を跡継ぎに決め、反対した一族や家臣を処罰しました。この強引な跡継ぎ決めが家中に深い傷を残し、長宗我部家は、関ヶ原の戦いのあと土佐を失うことになります。戸次川の敗戦は、一つの戦いの負けにとどまらず、長宗我部家の運命を変えた出来事でした。

戸次川の戦いのゆかりの地

  • 戸次川(大野川)古戦場(大分県大分市):大野川の中流、戸次(へつぎ)のあたりが戦場となった
  • 鶴賀城跡(大分県大分市上戸次):島津家久が攻めた大友方の城。利光宗魚が守った
  • 長宗我部信親の墓(大分県大分市中戸次):信親が討ち死にした地に建つ墓
  • 雪蹊寺(高知県高知市):長宗我部元親の菩提寺。信親の墓もある

筆者のひとこと

仙石秀久も必死だったのでしょう。同じように九州攻めで失敗して秀吉の怒りを買った尾藤知宣は、のちに斬られていますからね。

元親は、信親を失ったあとの憔悴ぶりが目に見えるようです。ただ、そこは戦国時代。気持ちを切り替えて、次の跡継ぎをすぐに決めるべきでした。

この戦いに登場した主な武将(豊臣方(先発隊))

この戦いに登場した主な武将(島津方)

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