めら しげかた
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊東家臣 |
| 大名家 | 伊東 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 武骨具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・「米良山」 |
日向米良の山林地帯を治めた豪族。木崎原の戦いにおいて伊東軍の先鋒として島津軍を猛追するも討死。
日向の米良
重方は、日向の米良の山林地帯を治めた豪族です。
米良の地
米良は、日向の山深い地域で、現在の宮崎県西米良村などのあたりにあたります。
伊東家に仕える
重方は、日向の戦国大名・伊東家に仕えました。
伊東家の全盛期
伊東家は、伊東義祐の時代に日向の広い範囲を治め、「伊東四十八城」と呼ばれる城の網を築いて全盛期を迎えました。
島津家との争い
日向をめぐっては、南から勢力を伸ばす島津家との激しい争いが続いていました。
木崎原の戦い
1572年、伊東家は島津義弘の守る加久藤城を攻めました。
先鋒として
重方は、伊東軍の先鋒の一人として戦ったとされます。
義弘の伏兵
島津義弘は、少ない兵で伏兵を巧みに使い、伊東の大軍を木崎原で迎え撃ちました。
島津軍を追う
重方は、島津軍を追って攻め込んだとされます。
討死
重方は、この木崎原の戦いで討死しました。
伊東家の大敗
木崎原の戦いで、伊東家は多くの重臣や武将を失い、大きく衰えていきました。
九州の桶狭間
少ない兵の島津家が大軍の伊東家を破った木崎原の戦いは、「九州の桶狭間」とも呼ばれます。
米良家のその後
米良家は、その後も米良の山間部で家を保ち、江戸時代には人吉藩の相良家に従ったとされます。
山の民
米良の山林地帯は、平地の大名の支配が届きにくい土地で、そこを治める豪族は独自の力を持っていました。
加久藤城
木崎原の戦いのきっかけとなった加久藤城は、島津家の北の守りの城で、現在の宮崎県えびの市にありました。
伊東軍の大軍
伊東軍はおよそ3000の兵を率いていたとされ、島津義弘の兵はその10分の1ほどだったと伝えられます。
討死した伊東家の武将たち
木崎原の戦いでは、伊東家の多くの有力な武将が討死し、伊東家の力は大きく損なわれました。
米良の山々
米良の地は、九州山地の奥深くにあり、平地から離れた山あいの集落が点在する土地でした。
伊東家の衰え
木崎原の戦いで多くの武将を失った伊東家は、その後島津家の攻勢を止めることができず、1577年に日向を追われました。
重方の評価
重方は、日向の米良を治めた豪族として伊東家に仕え、木崎原の戦いで先鋒として戦い討死した武将です。その死は、伊東家の衰退の始まりとなった戦いの中のことでした。
このイラストについて
兜をかぶった武将が軍配と槍を手にし、霧の立ちこめる深い山並みと山城を背にした姿です。
深い山並みは、重方が治めた日向の米良の山林地帯をイメージしています。軍配と槍を手にした姿は、木崎原の戦いで伊東軍の先鋒を務めたとされる重方を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
日向を本拠とした家で、鎌倉時代に工藤祐経の子孫が下向したのが始まりとされる。伊東義祐の代に日向南部の飫肥をめぐって島津氏と争い、「伊東四十八城」と呼ばれる支配網を築いて最盛期を迎えた。
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