いなわしろ もりくに
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 蘆名・伊達系 |
| 大名家 | 蘆名氏 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 太刀・密書 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 寝返り・摺上原のキーマン |
猪苗代城主。息子(亀千代)と対立し摺上原の戦い直前に伊達政宗へ寝返る。猪苗代城を政宗に提供し蘆名家滅亡を決定づけた。
猪苗代盛国とは
猪苗代盛国は、会津の蘆名家に仕えた猪苗代氏の当主で、猪苗代城を本拠としました。蘆名家の一族の流れをくむ家とされます。
猪苗代城
猪苗代城は、猪苗代湖の北にあった城で、亀ヶ城とも呼ばれます。会津の東の入り口を守る要の城でした。
蘆名家の一族
猪苗代氏は、蘆名家の祖先と同じ流れをくむ家で、会津の東部に根を張りました。しかし、蘆名家とはときに対立することもありました。
子との対立
盛国は、家督をめぐって子の盛胤と争ったと伝えられます。この家の中の争いが、盛国の決断に影響したとも考えられています。
蘆名家の弱まり
蘆名盛氏の死後、蘆名家では当主の早い死が続き、佐竹家から迎えた義広を当主としました。家臣たちの心は一つにまとまっていませんでした。
伊達政宗の誘い
南奥州で勢力を広げていた伊達政宗は、蘆名家の家臣たちに味方になるよう働きかけていました。盛国も、その一人でした。
伊達方へ
天正17年(1589年)、盛国は伊達政宗に味方し、猪苗代城を伊達方に明け渡しました。
摺上原の戦い
猪苗代城を得た政宗は、磐梯山のふもとの摺上原で蘆名義広の軍と戦い、大勝しました。
蘆名家の滅亡
この敗戦で黒川城は伊達家の手に渡り、蘆名家は大名としての歴史を閉じました。盛国の寝返りは、その大きなきっかけの一つでした。
伊達家の家臣として
盛国は、その後、伊達家の家臣となりました。政宗が会津を取り上げられたのちも、伊達家に仕えたとされます。
寝返りという選択
戦国時代には、家を守るために主家を変えることも珍しくありませんでした。盛国の選択も、その一つとして見ることができます。
亀ヶ城跡
猪苗代城の跡は亀ヶ城公園として整えられ、石垣が残っています。春には桜の名所として知られます。
猪苗代湖
猪苗代湖は、福島県のほぼ中央にある大きな湖で、「天鏡湖」とも呼ばれます。会津と中通りを結ぶ道の途中にありました。
伊達政宗と会津
摺上原の戦いののち、政宗は黒川城に入り、会津を本拠としました。しかし翌年、秀吉に会津を取り上げられました。
猪苗代氏のその後
猪苗代氏の一族は、伊達家の家臣として続き、仙台藩士となった家もあったとされます。
評価
盛国は、蘆名家の一族でありながら伊達政宗に味方し、蘆名家の滅亡を決定づけた人物です。その決断は、南奥州の勢力図を大きく塗り替えました。
このイラストについて
このイラストは、雪をかぶった山と城を背に、振り返る盛国を描いています。
白髪まじりの髪と、何かを見定めるような鋭い目で、大きな決断を下した老将の心の内を表しました。
背後の雪山と城は、磐梯山と猪苗代城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
相模の三浦氏の一族が会津に入って根付いた家。黒川城(のちの会津若松城)を本拠とし、蘆名盛氏の代に会津を中心として南奥州で最大級の勢力を築いた。
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