高山右近 | 摂津高槻城主。一流のキリシタン大名であり茶人。信仰を貫くために徳川家康のキリシタン禁教令によりマニラへ追放された

たかやま うこん

地域近畿
所属勢力・属性高山氏
大名家高山氏
家紋十字架
主武器太刀・十字架
衣装・甲冑洗練具足
武将タイプキリシタン・高潔
目次

高山右近とは

高山右近は戦国時代から江戸時代の初めにかけて生きた武将であり、摂津の高槻城主として世に知られ、洗礼名をジュストと称した、日本を代表するキリシタン大名として後世に語り継がれている人物である。
その生涯は、武人としての実力と、キリスト教への揺るぎない信仰とが激しくせめぎ合った軌跡であり、時の権力者である織田信長豊臣秀吉のもとで栄達を重ねながらも、最後には信仰を選んで大名の地位を自ら捨て去った。
また千利休に学んだ茶の湯の名手でもあり、利休七哲の一人に数えられるなど、荒々しい戦国の世にあって、武と信と数寄を一身に体現した稀有な教養人としても高く評価されている。
晩年は徳川幕府の禁教政策によって国外へと追われ、遠くマニラの地で世を去ったが、その敬虔な生き方は近代に至って再び光を浴び、カトリック教会の福者として列せられるに至った。

出自と父友照

高山右近は天文21年、西暦にしておよそ1552年ごろ、摂津国三島郡の高山庄、今の大阪府豊能町のあたりに生まれたと伝わり、幼名を彦五郎、のちに長房や重友と名乗ったとされている。
父は高山友照といい、飛騨守を称した武士で、はじめは畿内に一大勢力を築いた三好長慶や松永久秀のもとに属し、大和国の沢城を預かるなど、地方の有力な国衆として立ち働いていた人物であった。
友照は学識と信心の深い武将で、当時新たに畿内へ広まりつつあったキリスト教の教えに強く心を動かされ、やがて一族そろって洗礼を受ける道を選び取ることになる。
こうした父の生き方は幼い右近の人格の根を深く形づくり、生涯を貫く信仰の土台となったと考えられ、右近の物語は父友照の改宗を抜きにしては語ることができない。

一族の受洗と洗礼名ジュスト

永禄年間のなかば、およそ1563年から1564年ごろ、父友照はイエズス会の宣教師との対話を通じてキリスト教に帰依することを決意し、みずから洗礼を受けるとともに、一族郎党をあげて受洗へと導いた。
この一斉受洗によって、まだ少年であった右近も家族や家臣およそ150人とともに洗礼を受け、公正な者を意味するジュストという霊名を授けられたと伝えられている。
少年期に授かったこの洗礼名は、右近の人生をつらぬく背骨のようなものとなり、のちに彼が権力や領地よりも信仰の筋を通す選択を重ねていく姿は、まさにその名にふさわしいものであった。
戦国の武将の多くが現世の利をもって主を選び去就を決めた時代にあって、少年のうちに信仰の核を得ていたことは、右近をほかの大名とは異なる稀有な存在へと育てていったのである。

高槻城主への道

右近が歴史の表舞台へと躍り出るきっかけとなったのは、摂津高槻城をめぐる主家の内紛であり、当時この城は織田信長に重んじられた和田惟政が治め、高山父子はその配下に組み込まれていた。
しかし惟政が戦いで討ち死にすると、跡を継いだ子の惟長との間に不和が生じ、やがて惟長は高山父子を危険視して暗殺を企てるに至り、両者は城内で刃を交える事態へと突き進んでいった。
この争いのなかで右近は自身も深手を負いながら惟長に致命傷を与えたと伝わり、結果として高山父子が高槻城を掌握し、右近が城主の座に就くことになったのである。
若くして4万石ほどの城主となった右近は、以後この高槻を拠点に、武将として、またキリシタンの領主として、その名を畿内に広く知られていくことになる。

荒木村重への臣従

高槻城主となった右近は、当時摂津一国を織田信長から任されていた実力者の荒木村重に属し、その与力として摂津の防衛や畿内の各地の合戦に加わって武功を重ねていった。
村重は信長の信任も厚い有能な武将であり、その傘下にあった右近もまた信長政権の秩序のなかで安定した地歩を築き、キリシタンとしての領国づくりを着実に進めることができた。
この時期の右近は、主家である荒木家への武士としての忠義と、洗礼を通じて結ばれた信仰の絆とを、格別の矛盾もなく両立させていたと考えられている。
しかしこの平穏な関係は、村重が突如として信長に反旗をひるがえすことで根底から揺らぎ、右近は生涯で最も過酷な選択を迫られることになるのである。

荒木村重の乱と苦渋の選択

天正6年、西暦1578年の秋、荒木村重が突如として信長に叛旗をひるがえすと、その与力であった右近は、主家への忠義を守るか、それとも天下人へと近づく信長に従うかという板挟みに立たされた。
信長は右近が信仰篤きキリシタンであることを見抜き、宣教師を通じて、味方につかねば領内の教会や信徒を焼き払うと迫る一方、味方すれば信仰を保護すると説き、信仰そのものを交渉の材料に用いたと伝わる。
村重の側に立てば主家への義理は立つが信仰と領民が危うくなり、信長の側に立てば信仰は守られるが武士としての忠義に傷がつくという、いずれを取っても心の痛む究極の岐路であった。
この苦悩は右近をおおいに悩ませ、彼は信仰の指導者であった宣教師に相談を重ねながら、武士の面目と信徒としての務めのはざまで、長く思い惑ったと語り伝えられている。

信長への投降とオルガンティノ

右近が最後によりどころとしたのは、畿内で布教にあたっていたイエズス会の宣教師オルガンティノの助言であり、その導きのもとに、右近は信仰と領民を守ることを何より重んじる道を選び取った。
右近は主家に義理立てして無用な戦を続けるよりも、みずから所領を信長に返上して身を退くことで戦を避ける決断を下し、武具も持たず、紙子一枚の質素な姿で城を出て信長のもとへ赴いたと伝えられている。
この潔く飾らぬふるまいは信長を強く感心させたとされ、右近はとがめを受けるどころか、あらためて高槻の地を安堵され、キリシタンとしての領国経営を続けることを許されたのである。
主家を裏切ったという見方もつきまとう選択ではあったが、右近にとってそれは信仰と領民の命を守り抜くための、信念に貫かれた苦渋の決断であった。

キリシタン大名としての領国経営

高槻に復帰した右近は、みずからの信仰を領国づくりの中心にすえ、単に自分が信じるだけでなく、領民をキリスト教へと導くことに深い情熱を注いだ、まさにキリシタン大名の典型ともいうべき領主であった。
伝えられるところによれば、天正9年ごろまでに高槻の領民およそ2万5000人のうち、実に7割を超える1万8000人ほどがキリシタンとなっていたとされ、その熱心な布教ぶりがうかがえる。
右近は領内に多くの教会堂を建て、宣教師を手厚く迎え入れ、みずからも先頭に立って信仰の道を説くなど、領主の権威と信仰の使命とを分かちがたく結びつけた統治を行った。
こうした右近の領国は畿内における布教の一大拠点となり、宣教師たちからも格別に信頼される大名として、その名はキリシタンの世界で広く知られるところとなった。

教会とセミナリヨ

右近と父友照は高槻の城下に立派な教会堂や司祭の館を建立し、領内には20を超える天主堂が設けられたとも伝わり、その地は畿内のキリスト教信仰の中心地のひとつへと成長していった。
また信長が安土に神学校であるセミナリヨを建てるにあたっては、右近は多くの家臣を工事に送り出して協力したと伝わり、日本人の聖職者や指導者を育てる事業にも力を尽くしたとされる。
こうした教育や布教への尽力は、単なる為政者の施しにとどまらず、右近自身の信仰の深さと、次の世代へと信仰を受け継がせようとする強い願いの表れであったと考えられている。
武力によって領民を従わせるのではなく、教えと施設を整えることで人々の心を導こうとした右近の姿勢は、戦国の領主のなかでもきわだって独特なものであった。

茶人としての一面と利休七哲

右近は武将であると同時にすぐれた茶人でもあり、天下一の茶の宗匠とうたわれた千利休に直接学び、その高弟のなかでも特に優れた七人を指す利休七哲の一人に数えられている。
早くから茶会に列した記録が残り、当時来日していた宣教師からも、茶の湯において日本随一とまで評されたと伝わるほど、右近の数寄の道における力量は高く認められていた。
戦国の茶の湯は単なる遊興ではなく、武将たちが心を通わせ、また己の内面を静かに見つめ直す精神修養の場でもあり、右近にとって茶室は信仰の祈りにも通じる静謐なひとときであったと考えられる。
同じ利休の門下には蒲生氏郷ら名だたる武将が並び、右近はそうした一流の教養人たちと交わりながら、武と信と数寄を一身に兼ね備えた戦国屈指の文化人としての地位を確かなものにしていった。

豊臣秀吉政権下での武功

本能寺の変で信長が斃れたのち、右近はいち早く羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉のもとに身を寄せ、明智光秀を討った天正10年の山崎の戦いでは先鋒の一翼を担い、めざましい働きを見せたと伝わる。
続く天正11年の賤ヶ岳の戦いでも、右近は柴田勝家方と対峙する重要な陣を守って奮戦し、秀吉が天下人へと駆け上がっていく過程で、その武勇をもって数々の合戦に貢献した。
こうした戦功により右近はたびたび加増を受け、キリシタン大名としてだけでなく、実戦においても頼りになる有能な将として、秀吉政権のなかで確かな地位を占めるに至った。
信仰に生きる領主でありながら、いざ戦場に立てば勇猛に戦うその姿は、右近が単なる敬虔な信徒ではなく、時代を生き抜く一流の武人であったことを物語っている。

明石船上城への転封

秀吉のもとで武功を重ねた右近は、天正13年、西暦1585年ごろに播磨国の明石へと所領を移され、6万石を与えられて船上城を居城とし、以前にも増して大きな大名へと成長した。
新たな領国となった明石においても、右近はそれまでと変わらぬ熱意でキリスト教の布教に努め、教会を建て、領民を信仰へと導き、播磨の地に新たなキリシタンの拠点を築いていった。
この時期の右近は、豊臣政権の有力な大名として、また畿内から西国へと広がるキリスト教世界の中核を担う存在として、まさにその生涯の絶頂にあったといってよい。
しかしこの栄華は長くは続かず、天下を統一へと近づけた秀吉の宗教政策の転換によって、右近は再び信仰か地位かという重い選択を突きつけられることになる。

バテレン追放令と棄教の拒否

天正15年、西暦1587年、九州を平定した豊臣秀吉は突如としてバテレン追放令を発し、宣教師の国外退去を命じるとともに、大名がキリシタンであることに強い警戒の目を向けるようになった。
秀吉は右近の才能と武勇を惜しみ、信仰さえ捨てれば大名としての地位も所領もそのまま安堵すると持ちかけたと伝わるが、右近はその誘いをきっぱりと退け、信仰を守る道を選んだ。
多くの大名が保身のために表向き信仰を捨てるふりをしてでも地位を守ろうとしたなかで、右近は現世のいかなる栄達よりも、洗礼を通じて神と結んだ約束を重んじたのである。
この毅然とした態度こそ、少年のころに授かった洗礼名ジュスト、すなわち公正な者の名を生涯にわたって体現するものであり、後世に彼の名を輝かせる最大の理由となった。

大名の地位を捨てる

信仰を捨てることを断固として拒んだ右近は、その報いとして明石6万石の所領をことごとく没収され、大名としての地位も、蓄えた財も、家臣も、一切を失うことになった。
戦国の世にあって、必死に勝ち取った領地と身分を、みずからの信念のために惜しげもなく手放すという右近の選択は、当時の武士の常識をはるかに超えた驚くべき決断であった。
所領を失い一介の浪々の身となってもなお、右近は少しも信仰を曲げようとはせず、その一貫した姿勢は、宗教の違いを超えて多くの人々の敬意を集めることになったと伝わる。
権力や富をもって計られる戦国の価値観のなかで、右近は何ものにも代えがたい信仰を守り抜くことで、かえって時代を超えて記憶される人物となったのである。

流浪と庇護の日々

大名の地位を失った右近は行き場を失うかに見えたが、その人物と信仰の篤さを惜しむ者は少なくなく、同じキリシタン大名であった小西行長が右近を小豆島などにかくまい、しばらく身を寄せさせたと伝わる。
追放令によって公然と信仰を掲げることが難しくなった時代にあって、右近を助けた者たちの行いは、彼がいかに広く敬愛され、また信頼される人柄であったかを物語っている。
所領も後ろ盾も失いながら、なお各地の有力者に迎えられて生き延びることができたのは、右近の武将としての力量と、数寄や信仰を通じて培った人と人との深い結びつきゆえであった。
こうした流浪の日々を経て、右近はやがて北陸の大大名である前田家に迎えられ、人生の後半を加賀の地で過ごすことになる。

前田家の客将として加賀へ

浪々の身となった右近に手を差し伸べたのは、加賀百万石の礎を築いた前田利家であり、利家はかつての誼をもって右近を客将として迎え入れ、手厚くその暮らしを支えたと伝えられている。
前田家における右近は、2万6000石ほどの扶持を与えられて遇されたとされ、一大名にも比すべき破格の待遇のもとで、信仰を保ちながら静かに暮らすことを許された。
利家やその子利長のもとで、右近は単なる客人にとどまらず、城の縄張りや普請に卓越した知識を発揮し、加賀の高岡城の設計に関わったとも伝わるなど、築城家としての才も惜しみなく役立てた。
こうして右近は、大名の地位こそ失いながらも、その武将としての力量と人柄を前田家に重んじられ、加賀の地でおよそ四半世紀にわたる穏やかな後半生を送ったのである。

国外追放令とマニラへ

加賀での平穏な日々は、徳川の世が固まるとともに再び揺らぎ、慶長19年、西暦1614年、江戸幕府が全国に厳しい禁教令を敷き、キリシタンの国外追放を命じたことで、右近もついに日本を追われる身となった。
すでに老境にあった右近は、それでもなお信仰を捨てることをよしとせず、前田家との別れを惜しみつつ加賀を退去し、家族や信徒の仲間とともに長崎から海の彼方のマニラへと送られていった。
半生をかけて築いた地位も、庇護してくれた前田家との縁も、慣れ親しんだ故郷の地も、すべてを後にしての船出であったが、右近の胸のうちにあった信仰だけは、最後まで揺らぐことがなかった。
追放という過酷な運命を前にしてもなお、信じる道を静かに歩み続けた右近の姿は、彼の生涯を締めくくるにふさわしい、まことに一貫したものであった。

マニラでの最期

慶長19年の暮れ、西暦にしておよそ1614年の12月にマニラへと到着した右近は、現地のキリスト教徒たちから、信仰のためにすべてを捨てた高潔な武将として、この上ない歓迎と敬意をもって迎えられた。
しかし長い船旅の疲れと、慣れない南国の気候とが老いた身をむしばみ、右近はマニラに着いてわずか40日ほどのちの、翌1615年のはじめに、異郷の地で静かに息を引き取ったと伝えられている。
享年はおよそ63であったとされ、信仰を貫いて日本を追われた高名なキリシタン武将の死を悼み、その葬儀はマニラの町をあげて幾日にもわたり盛大に執り行われたと語り伝えられている。
生まれ育った日本の地に帰ることは叶わなかったが、右近は最後まで信仰を手放すことなく、まさにその名の示すとおり公正な者として、遠い異国でその生涯を閉じたのである。

後世の評価と列福

高山右近は、権力や富に屈することなく信仰を貫き、大名の地位さえ捨てて異郷に没したその生き方によって、宗教の別を超えて敬愛される、戦国史のなかでもきわめて特異な人物として記憶されている。
武勇にすぐれ、茶の湯を極め、なおかつ信仰に一切の妥協を許さなかったその姿は、武と文と信の三つを高い次元で調和させた、戦国屈指の教養人の理想像として今なお語り継がれている。
その敬虔な生涯は近代に入って改めて注目を集め、平成29年、西暦2017年には、カトリック教会が右近を福者として列福し、信仰に殉じた者としての彼の歩みが世界的にも公に認められるに至った。
織田信長や豊臣秀吉、そして前田利家といった天下を左右した人々と深く関わりながら、なお己の信じる道を最後まで曲げなかった高山右近の生涯は、時代を超えて人の心に静かな感銘を与え続けている。

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