天正15年(1587)5月、島津義久が降伏して九州征伐は終わりました。翌6月、豊臣秀吉は博多の筥崎(はこざき)に陣を置き、九州の国々をだれに与えるかを決めます。これを九州国分(くにわけ)と呼びます。黒田官兵衛、小早川隆景、立花宗茂、佐々成政など、のちの歴史を動かす武将たちが、このとき九州の新しい領主になりました。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」で描かれる肥後の一揆も、この国分けがきっかけです。この記事では、九州のどの国がだれのものになったのかを、略図と一覧表で整理し、それぞれの家がその後どうなったのかまで追います。
九州国分では、降伏した島津家に薩摩・大隅と日向の一部だけが残され、九州北部には秀吉の信頼する大名が新しく配置されました。豊前には黒田孝高(官兵衛)と毛利勝信、筑前には小早川隆景、肥後には佐々成政が入り、筑後では立花宗茂が独立した大名に取り立てられています。
一方で、豊後の大友家、肥前の龍造寺家や松浦・有馬・大村家、日向の伊東家などは、もとの領地をほぼ安堵されました。ところが13年後の関ヶ原の戦いのあと、この顔ぶれは大きく入れ替わります。
九州国分で領地を得た主な武将
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略図で見る九州国分
九州の9か国と対馬に、だれが入ったのかを地図にまとめました。博多の筥崎に秀吉の陣が置かれ、ここで国分けが決められました。

国別の一覧表 ― だれがどこを得て、その後どうなったか
| 国 | 大名 | 九州国分での扱い | その後 |
|---|---|---|---|
| 筑前 | 小早川隆景 | 筑前一国と筑後・肥前の一部を与えられ、九州北部の要に | 慶長2年(1597)に没。養子の秀秋は関ヶ原で東軍に寝返る |
| 豊前 | 黒田孝高(官兵衛) | 豊前6郡(中津)を与えられる | 子の長政が関ヶ原の功で筑前52万石の大名に |
| 豊前 | 毛利勝信 | 豊前2郡(小倉)を与えられる | 関ヶ原で西軍につき改易 |
| 筑後 | 立花宗茂 | 大友家の家臣から独立し、柳川の大名に | 関ヶ原で西軍につき改易。のちに柳川へ復帰した唯一の大名 |
| 筑後 | 小早川秀包 | 久留米を与えられる | 関ヶ原で西軍につき改易 |
| 筑後 | 高橋統増・筑紫広門 | 三池・上妻郡をそれぞれ与えられる | ともに関ヶ原で西軍につき改易 |
| 豊後 | 大友義統 | 豊後一国を安堵される | 文禄2年(1593)、朝鮮出兵での失態で改易 |
| 肥前 | 龍造寺政家(鍋島直茂) | 肥前の大部分を安堵される | 実権は鍋島家に移り、のちの佐賀藩となる |
| 肥前 | 松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前 | 平戸・島原・大村をそれぞれ安堵される | 松浦・大村は江戸時代も続く。有馬晴信は慶長17年(1612)に事件で処罰される |
| 肥前 | 波多親 | 唐津を安堵される | 朝鮮出兵中の文禄2年(1593)に改易 |
| 対馬 | 宗義調・宗義智 | 対馬を安堵される | 朝鮮との外交をになう対馬藩として続く |
| 肥後 | 佐々成政 | 肥後の大部分を与えられる | 国人一揆を招き、翌年切腹。肥後は加藤清正と小西行長に分けられる |
| 肥後 | 相良頼房 | 球磨郡を安堵される | 人吉藩として明治まで続く |
| 日向 | 伊東祐兵 | 島津に追われていた伊東家が飫肥に復帰 | 飫肥藩として明治まで続く |
| 日向 | 秋月種長 | 筑前の秋月から日向の財部(高鍋)へ移される | 高鍋藩として明治まで続く |
| 日向 | 高橋元種・島津豊久 | 延岡(縣)・佐土原を与えられる | 元種は慶長18年(1613)に改易。豊久は関ヶ原で討死 |
| 薩摩・大隅 | 島津義久・島津義弘 | 九州の大半を返し、薩摩・大隅と日向の一部に | 関ヶ原で西軍についたが本領を守りきり、薩摩藩に |
秀吉のねらい ― 九州北部に「信頼できる大名」を置く
国分の顔ぶれを見ると、秀吉の考えがよくわかります。九州の北半分、とくに博多や関門海峡に近い筑前・豊前には、小早川隆景や黒田孝高といった、秀吉が信頼し、しかも戦にも政治にも通じた大名が置かれました。博多は大陸との貿易の玄関口で、秀吉はこの直後に博多の町の復興(太閤町割り)も命じています。北九州を固めることは、のちの朝鮮出兵につながる準備でもあったと考えられます。

一方で、島津家は九州の大半を手放したものの、本国の薩摩・大隅は残されました。徹底的に滅ぼすのではなく、降伏した大名を残して使うのは、四国の長宗我部家に対するのと同じやり方です。家康の臣従と同じく、「一度下った者は生かす」という秀吉の方針がここにも表れています(「一度くだって時を待った」戦国大名たち)。
肥後の佐々成政 ― 国分がそのまま一揆の火種に
九州国分で最も大きな問題を抱えたのが肥後でした。肥後には、小さな国人(土地の領主)が数多くいて、島津の支配のもとでも、それぞれの土地を守ってきました。そこへ入った佐々成政は、すぐに検地(土地の調査)を進めようとします。これに反発した国人たちが、隈部親永を中心に一揆を起こしました。
一揆は九州の大名たちの手でようやく鎮められましたが、秀吉は成政の責任を問い、翌天正16年(1588)に切腹させました。肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に分けて与えられます。くわしくは肥後国人一揆をわかりやすく解説、佐々成政の生涯をわかりやすく解説をご覧ください。
大友家・島津家・立花家 ― 国分で変わった三つの家

大友家:島津に攻められて秀吉に助けを求めた大友宗麟は、九州平定を見届ける直前の天正15年5月に亡くなりました。子の義統は豊後一国を安堵されましたが、6年後には改易され、鎌倉時代から続いた大友家は大名の座を失います(豊薩合戦をわかりやすく解説)。
島津家:九州のほとんどを手に入れかけていた島津家は、本国だけに押し戻されました。それでも、このとき残された薩摩・大隅を、島津家は関ヶ原のあとも守りぬき、幕末まで大きな力を保ちます。
立花家:大友家の家臣だった立花宗茂は、岩屋城で父の高橋紹運を失いながらも立花山城を守りぬき、その功で柳川の大名に取り立てられました。主家の大友家から独立したことになり、秀吉が宗茂をどれほど高く評価していたかがわかります(岩屋城の戦いをわかりやすく解説)。
13年後の関ヶ原で、顔ぶれはどう変わったか
九州国分で領地を得た大名たちの多くは、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで運命を分けました。西軍についた立花宗茂、小早川秀包、毛利勝信、高橋統増、筑紫広門は、そろって領地を失います。一方、東軍についた黒田長政は筑前52万石の大大名となり、加藤清正は肥後一国を手に入れました。小西行長は西軍の将として処刑されています。

九州国分で生まれた配置は、わずか13年で大きく塗り替えられたのです。江戸時代まで同じ土地で続いたのは、島津・鍋島・松浦・大村・相良・伊東・秋月・宗など、もとからその土地にいた家の多くでした。
九州国分の年に、大名に取り立てられた武将と領地を失った武将については、天正15年に明暗が分かれた武将たちで人物ごとにまとめています。
まとめ
天正15年6月の九州国分で、秀吉は島津家を薩摩・大隅に押し戻し、九州北部に黒田孝高・小早川隆景・佐々成政らを配置しました。立花宗茂は独立した大名に取り立てられ、大友家・龍造寺家などはもとの領地を安堵されています。ただ、肥後では佐々成政の検地が一揆を招き、翌年には成政が切腹に追いこまれました。そして関ヶ原の戦いのあと、九州の大名の顔ぶれは再び大きく入れ替わります。九州国分の詳しい経緯は、姉妹サイトの日本の歴史ガイド「九州攻めはどう終わったのか」でも取り上げています。
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