「一度くだって時を待った」戦国大名たち|家康・政宗・昌幸・島津・元親・輝元・景勝は秀吉に下ったあとどうなったか ― 待って報われたのはなぜ家康だけだったのか

大坂城で秀吉に頭を下げる家康と、秀吉に下った大名たち(イメージ)

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回のタイトルは「家康の野望」です。徳川家康は天正14年(1586)、ついに上洛して秀吉に頭を下げました。しかしそれは心からの屈服ではなく、いったん下ったかたちをとって時を待つ、という選択だったのではないでしょうか。じつは、秀吉に下った大名は家康だけではありません。伊達政宗、真田昌幸、島津義久、長宗我部元親、毛利輝元、上杉景勝。みな一度は秀吉に頭を下げ、その後の時代を生きました。この記事では、秀吉に下った大名たちのその後を並べて、「待って報われたのは、なぜ家康だけだったのか」を考えます。

先に答え

秀吉に下った大名のうち、秀吉の死後に天下を取ったのは家康ただ一人でした。政宗は待ちきれずに動いて疑われ、輝元と景勝は関ヶ原で家康に敗れて大きく領地を減らし、長宗我部家と真田昌幸は家を失いました。島津家だけは、関ヶ原で西軍についたにもかかわらず本領を守りきっています。

家康が報われた理由は、待っているあいだに力をたくわえ、豊臣政権のなかで最も重い立場を手に入れ、そして秀長や前田利家といった「おさえ役」がいなくなった瞬間を逃さなかったことにあります。人質時代からの長い忍耐の経験が、その「待つ力」を支えていたと考えられます。

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目次

秀吉に下った大名たち

イラストをクリックすると、それぞれの人物ページに移ります。

一覧表 ― 秀吉に下った大名は、そのあとどうなったか

大名 秀吉に下った年 下ったときの事情 関ヶ原での選択 最後の結果
徳川家康 天正14年(1586) 小牧・長久手で引き分けたあと、妹と母を差し出されて上洛 東軍の総大将 天下を取り、江戸幕府を開く
伊達政宗 天正18年(1590) 小田原攻めに遅れて参陣し、白装束で秀吉に会う 東軍 仙台藩62万石。家康との「百万石の約束」は果たされず
真田昌幸 天正13〜15年(1585〜87)ごろ 徳川と争った末、秀吉の裁きで家康の与力とされる 西軍(第二次上田合戦) 九度山に流され、そこで没する
島津義久 天正15年(1587) 九州征伐に敗れ、剃髪して降伏 弟の義弘が西軍で参戦 交渉の末、薩摩・大隅などの本領を守る
長宗我部元親 天正13年(1585) 四国攻めに敗れ、土佐一国に減らされる 子の盛親が西軍 改易。盛親は大坂の陣のあと処刑され、家は絶える
毛利輝元 天正11年(1583)ごろ 本能寺の変のあとの和睦を経て臣従 西軍の総大将 120万石から周防・長門の36万石に減らされる
上杉景勝 天正14年(1586) 上洛して臣従。のちに会津120万石 家康と対決(会津征伐のきっかけ) 米沢30万石に減らされる
北条氏政 (下らなかった) 上洛を拒み続ける ― 天正18年の小田原攻めで滅び、氏政は切腹

こうして並べると、一度下った大名のなかで、秀吉の死後に「下る前より大きくなった」のは家康だけだったことがわかります。

伊達政宗 ― 待ちきれなかった独眼竜

伊達政宗は、家康より25歳も若い大名です。天正18年(1590)の小田原征伐に遅れて駆けつけ、死に装束で秀吉の前に出て許されたという話はよく知られています。しかし政宗は、その後もおとなしく待ってはいませんでした。翌年には、奥州で起きた葛西・大崎一揆を裏であおったのではないかと疑われ、ふたたび秀吉の前で釈明しなければなりませんでした。

伊達政宗が築いた仙台城(青葉城)の脇櫓(運営者撮影)
伊達政宗が築いた仙台城(青葉城)の脇櫓(運営者撮影)

関ヶ原の戦いでは東軍につき、家康から大きな加増を約束されたといわれます(いわゆる「百万石のお墨付き」)。ところが戦いのさなかに、南部領で起きた一揆をひそかに支援したことが知られ、約束はほごにされました。政宗は才能にあふれていましたが、機会が来る前に自分から動いてしまう人でもありました。

真田昌幸 ― 二度、徳川を退けた男の結末

真田昌幸は、第一次上田合戦で徳川の大軍を退けた武将です。その後、秀吉に従い、秀吉の裁きによって家康の与力(配下)とされました。昌幸にとっては、戦って勝った相手の下につくことになったのです。

真田昌幸が築いた上田城の櫓(運営者撮影)
真田昌幸が築いた上田城の櫓(運営者撮影)

秀吉の死後、昌幸は関ヶ原の戦いで西軍につき、上田城で徳川秀忠の大軍を足止めしました(第二次上田合戦)。しかし西軍は本戦で敗れ、昌幸は紀伊の九度山に流されて、そこで生涯を終えます。昌幸は待つことよりも、自分の才覚で勝負に出ることを選んだ武将でした。家は東軍についた長男の真田信之が守りました。

島津義久・義弘 ― 待って「守りきった」もう一つの成功

島津義久は、天正15年(1587)の九州征伐に敗れ、頭を丸めて秀吉に降伏しました。九州をほぼ手中にしていた島津家にとっては、大きな屈辱です。それでも島津家は、豊臣政権のもとで薩摩・大隅を保ち続けます。

島津家の居館があった内城跡(鹿児島市)(運営者撮影)
島津家の居館があった内城跡(鹿児島市)(運営者撮影)

関ヶ原の戦いでは、弟の島津義弘がなりゆきで西軍に加わり、敗戦のなか敵中を突破して帰国しました(島津の退き口)。そのあと島津家は、すぐには家康に謝罪せず、国の守りを固めながら粘り強く交渉を続けます。その結果、西軍についた大名としてはめずらしく、本領をそのまま守りきりました。天下は取れなくても、「待つ」ことで家を守った例といえます。

長宗我部元親 ― 待つ前に心が折れた

長宗我部元親は、苦労のすえに四国をほぼ統一した直後、天正13年(1585)の四国攻めで秀吉に敗れ、土佐一国に減らされました。さらに翌年、秀吉の命で九州に出陣した戸次川の戦いで、跡継ぎの長宗我部信親を失います。

長宗我部元親の居城・岡豊城跡(高知県南国市)(運営者撮影)
長宗我部元親の居城・岡豊城跡(高知県南国市)(運営者撮影)

この悲しみから元親は気力を失い、跡継ぎをめぐって家中を乱したといわれます。元親は秀吉より先、慶長4年(1599)に亡くなりました。跡を継いだ盛親は関ヶ原で西軍につき、領地を失います。最後は大坂の陣で豊臣方として戦い、敗れて処刑されました。長宗我部家にとって、待つあいだに受けた傷はあまりに深かったのです。

毛利輝元・上杉景勝 ― 待つ場所はあったが、勝負の時をまちがえた

毛利輝元と上杉景勝は、家康と並ぶ豊臣政権の「五大老」でした。豊臣政権のなかで、家康に次ぐほどの重い立場にいたのです。

毛利輝元が築いた広島城(運営者撮影)
毛利輝元が築いた広島城(運営者撮影)
上杉景勝が120万石で入った会津の若松城(鶴ヶ城)(運営者撮影)
上杉景勝が120万石で入った会津の若松城(鶴ヶ城)(運営者撮影)

ところが秀吉の死後、二人は家康と対決する道を選びます。景勝は家康に疑われて会津征伐を招き、輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将として大坂城に入りました。しかし輝元は自ら戦場に出ることはなく、毛利家の一部は家康側とひそかに通じていました。結局、毛利家は120万石から36万石に、上杉家は120万石から30万石に減らされます。待つための立場は持っていましたが、勝負に出るときの準備が家康に及ばなかったのです。

北条氏政 ― 下らなかった者の結末

反対に、最後まで秀吉に頭を下げなかったのが北条氏政です。氏政は家康の同盟相手でしたが、家康が臣従したあとも上洛を拒み続けました。その結果、天正18年(1590)の小田原征伐で北条家は滅び、氏政は切腹します。家康が「一度下る」ことを選ばなかったら、同じ道をたどっていたかもしれません。

北条家の本拠・小田原城(運営者撮影)
北条家の本拠・小田原城(運営者撮影)

なぜ家康だけが報われたのか

ほかの大名と比べると、家康には次のような違いがありました。

  • 待つあいだに力をたくわえた:天正18年、家康は秀吉の命で先祖伝来の三河などを離れ、関東へ移されます。一見すると不利な国替えでしたが、家康はこれを受け入れ、250万石ともいわれる大領国をつくり上げました。
  • 政権のなかで最も重い立場を得た:家康は五大老の筆頭となり、秀吉からも頼りにされました。反抗すれば疑われる立場ではなく、頼られる立場で待ったのです。
  • おさえ役がいなくなった:家康を抑えられる人物は、豊臣政権のなかにそう多くはいませんでした。天正19年(1591)に豊臣秀長が、慶長4年(1599)に前田利家が世を去ると、家康を止められる人はほとんどいなくなります。
  • 動くべき時を見きわめた:家康は秀吉の生前には一度も逆らいませんでした。秀吉の死後に初めて、大名どうしの縁組などで少しずつ動き始め、関ヶ原で一気に勝負を決めます。政宗のように早すぎず、輝元のように迷うこともありませんでした。

家康の「待つ力」はどこから来たのか

家康はなぜ、これほど辛抱強く待てたのでしょうか。家康の人生をふり返ると、頭を下げて耐える経験を、若いころから何度も重ねてきたことがわかります。

15401550156015701580159016001610人質時代(織田・今川)6〜19歳桶狭間の戦いで独立1560年・19歳信長の同盟者として従う21〜41歳三河一向一揆(家臣の反乱)22歳三方ヶ原の戦いで大敗1572年・31歳築山殿・信康を死なせる1579年・38歳本能寺の変・伊賀越え1582年・41歳小牧・長久手の戦い1584年・43歳秀吉に臣従して「待つ」45〜57歳関東へ移される1590年・49歳秀吉の死1598年・57歳関ヶ原の戦い1600年・59歳征夷大将軍となる1603年・62歳大坂の陣で豊臣家を滅ぼす1614〜15年・73〜74歳耐える・下る転機動いて天下を取る
家康の人生の分岐点(年齢は数え年)。前半生の大半が「耐える・下る」時期だったことがわかる

6歳から19歳まで、家康は織田家と今川家の人質として過ごしました。独立したあとも、織田信長の同盟者として、しばしば格下の扱いを受けています。三方ヶ原の戦いでは武田信玄に大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰りました。

そしてもっとも重い出来事が、天正7年(1579)に正室の築山殿と長男の松平信康を死なせた事件です。昔からの通説では、信長に命じられて家康がやむなく従ったとされてきました。一方で近年は、家中の対立をおさめるために家康自身が決断したとみる説も有力になっています。どちらの説をとっても、家康が家を守るために、もっとも身近な家族を犠牲にしたことに変わりはありません。

こうした経験を重ねてきた家康にとって、秀吉に頭を下げることは、耐えられないほどの屈辱ではなかったのかもしれません。ここで下っておけば、いつか自分にも機会がめぐってくる。家康にはそういう見通し、あるいは確信があったのではないでしょうか。家康が耐えた場面については、姉妹サイトの日本の歴史ガイド「家康の我慢強さはどこから来たのか」でくわしく取り上げています。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の家康

ドラマの家康は、第41回で上洛しながら、秀長の暗殺までたくらむ人物として描かれるようです。予告では、大坂城を攻めるならどこから攻めるか、と口にする場面も流れました。いったん下るかたちをとりながら、心の中では次の時代を見すえている。ドラマの「家康の野望」は、まさにこの記事で見てきた「下って待つ」家康の姿を描こうとしているのかもしれません(第41回「家康の野望」あらすじと展開予想)。

まとめ

秀吉に一度下った大名はたくさんいましたが、待って天下を取ったのは家康ただ一人でした。政宗は待ちきれず、昌幸と輝元・景勝は勝負に出て敗れ、長宗我部家は待つあいだに力を失いました。島津家は、天下ではなく本領を守るという形で、待つことに成功しました。家康は、待つあいだに力をたくわえ、政権のなかで最も重い立場を得て、ライバルやおさえ役が世を去った瞬間に動きました。その背後には、人質時代から積み重ねてきた忍耐の経験があったのです。

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