しばた かついえ
| 地域 | 北陸・東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田家臣 |
| 大名家 | 柴田氏 |
| 家紋 | 二つ雁金 |
| 主武器 | 大槍・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒糸威具足 |
| 武将タイプ | 「鬼柴田」・剛勇 |
柴田勝家とは
柴田勝家は、織田信長のもとで筆頭家老を務めた宿将である。「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれ、織田軍団のなかでも屈指の猛将として知られた。北陸方面軍の司令官として越前・加賀を平定し、北ノ庄に四十九万石を領した。信長の家臣として到達しうる最高の地位である。しかし本能寺の変の後、羽柴秀吉との主導権争いに敗れる。賤ヶ岳の戦いに敗れ、妻となったお市の方とともに北ノ庄城で自刃した。武勇一辺倒の古武士として語られがちだが、越前の統治では検地や刀狩に先鞭をつけた為政者でもある。その生涯を順にたどっていく。
- 尾張の出身。生年は大永2年(1522年)とする説が一般的だが、異説もある。信長の重臣として織田家の筆頭格の宿老となった
- 天正3年(1575年)から越前北ノ庄城主として北陸方面の司令官を務めた。清須会議のあと、信長の妹・お市の方を妻に迎えた
- 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市とともに自害した
織田信秀の代から
勝家は大永二年(1522年)頃、尾張国愛知郡に生まれたとされる。生年には諸説あり、はっきりしない。若くして織田信秀に仕え、その死後は信秀の三男である織田信行に付けられた。信行の家老として、勝家は織田家中で重きをなしていく。当時の織田家では、うつけと評された信長よりも、行儀のよい信行こそ当主にふさわしいという声が強かった。勝家もその一人であった。
弘治二年(1556年)、信行を担ぐ勢力は信長に対して挙兵する。稲生の地で両軍は激突した。勝家は千余りの兵を率いて奮戦したが、信長自らの突撃を受けて敗走する。信長の強さを、身をもって知った戦いであった。戦後、勝家は母である土田御前の取りなしによって赦された。信長は敗者を殺さず、家臣として抱え込む道を選んだのである。
信長への忠誠
赦された翌々年、信行は再び謀反を企てる。このとき勝家は、その計画を信長へ密告した。信行は清洲城へ誘い出されて誅殺される。かつての主君を売った形になるが、勝家は信長の器量を認め、織田家の将来を託す相手を見極めたのである。以後、勝家は信長の最も信頼する家臣の一人となった。桶狭間、美濃攻め、上洛戦、そして各地の平定戦。
主要な戦役のほとんどに勝家の名がある。一度は敵対した相手を重用する信長と、旧主を裏切ってでも新しい主君に尽くす勝家。どちらも実力本位の時代を象徴している。勝家はその後、二十五年にわたって信長に仕え続けた。裏切りが常態であった時代に、この一貫性は際立っている。
瓶割り柴田
元亀元年(1570年)、勝家は近江の長光寺城に籠もっていた。六角義賢の軍に包囲され、水の手を断たれる。城内に残された水は、瓶に蓄えられた分だけであった。渇きに苦しむ城兵の士気は、日に日に落ちていく。勝家は将兵を集め、残る水を存分に飲ませた。そして飲み終えるや、槍の柄で瓶を叩き割ったと伝えられる。もはや退路はない。ここで討って出て勝つほかないと示したのである。
決死の覚悟を固めた城兵は城門を開いて突撃し、六角勢を撃ち破った。この逸話から、勝家は「瓶割り柴田」と呼ばれるようになる。武勇だけでなく、兵の心を動かす術を心得た将であったことを示す話である。また戦場では常に先頭に立って「かかれ」と叫んだことから「かかれ柴田」の異名も得た。勝家の指揮は、理屈より気迫で兵を動かすものであった。
北陸方面軍の司令官
天正三年(1575年)、信長は越前の一向一揆を殲滅する。この平定戦の後、勝家は越前八郡を与えられ、北ノ庄に居城を構えた。石高はおよそ四十九万石。織田家臣として最大級の領地であり、同時に北陸方面軍の司令官という重責を伴っていた。与力として前田利家・佐々成政・不破光治のいわゆる府中三人衆が付けられた。彼らは勝家の指揮下で加賀・能登へ進攻していく。北陸の敵は、加賀の一向一揆と越後の上杉謙信であった。
とくに謙信は当代最強と目される軍神であり、正面から当たるのは容易でない。天正五年(1577年)、勝家は加賀の手取川で上杉軍と対峙し、大敗を喫した。夜間の渡河中に襲われたとされ、多くの将兵を失っている。しかし翌年に謙信が急死すると情勢は一変する。勝家は加賀を平定し、能登・越中へと戦線を押し上げていった。
越前の統治
勝家の事績で見落とされがちなのが、越前における領国経営である。一向一揆によって荒廃した国を、彼は着実に立て直した。天正三年から四年にかけて、勝家は越前で検地を実施している。信長政権における検地の先駆的な例であった。また刀狩を行い、農民から武器を取り上げた。秀吉の刀狩令に十数年先立つ施策であり、兵農分離の萌芽といえる。北ノ庄では城下町を整備し、九十九橋を架けた。
半分が石造、半分が木造という珍しい構造で、笏谷石という地元の石材が用いられている。楽市の保護、街道の整備、寺社の統制。勝家の越前統治は、猛将のイメージとは裏腹に周到なものであった。わずか八年の在国であったが、福井の町の骨格はこの時期に定まった。北ノ庄はのちに福井と改称され、今日へ続いている。
本能寺の変と出遅れ
天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変が起こる。このとき勝家は越中の魚津城を攻めており、上杉方との激戦のさなかであった。変の報が届いたのは、魚津城を落とした直後である。しかし上杉軍が目前におり、すぐには軍を返せなかった。北陸から京へ戻るには、険しい山道を越えねばならない。距離も遠く、勝家が近江へ到達したときには、すでに山崎の戦いは終わっていた。
中国地方にいた羽柴秀吉が、驚異的な速度で引き返して明智光秀を討ったのとは対照的であった。位置と状況の差が、そのまま二人の運命を分けた。織田家の筆頭家老でありながら、主君の仇討ちに間に合わなかった。この一事が、以後の主導権争いにおいて勝家を決定的に不利にする。
清洲会議
同年六月、織田家の後継と領地配分を決めるため、清洲城に重臣が集まった。勝家、秀吉、丹羽長秀、池田恒興の四人である。勝家は信長の三男である織田信孝を推した。すでに成人しており、当主として実務を担えるという判断である。対する秀吉は、本能寺で死んだ信忠の遺児である三法師を推した。まだ三歳の幼児であり、後見人が実権を握る構図になる。結果は秀吉の主張が通った。
仇討ちの功と、丹羽長秀・池田恒興を味方につけた根回しの差である。勝家は筆頭家老でありながら、会議の主導権を握れなかった。領地配分でも秀吉が河内・山城などを得て畿内に地歩を築いたのに対し、勝家が加えられたのは長浜など限られたものであった。この会議を境に、両者の力関係は逆転する。勝家は序列の上では上位にありながら、実質では秀吉に後れを取っていった。
お市の方との婚姻
清洲会議の後、勝家は信長の妹であるお市の方を妻に迎えた。浅井長政の未亡人であり、当時三十代半ばである。この婚姻には政治的な意味があった。信長の妹を娶ることで、勝家は織田家との血縁を得て、秀吉に対する正統性を主張できる。お市の方も、兄を継ぐ者として秀吉ではなく勝家を選んだことになる。秀吉が浅井家を滅ぼした張本人であることを思えば、心情も理解できる。お市は三人の娘とともに北ノ庄城へ入った。落城から九年を経て、彼女は再び戦国大名の妻となったのである。しかしこの結婚生活は、わずか半年あまりで終わりを迎える。
賤ヶ岳の戦い
天正十一年(1583年)、勝家と秀吉の対立はついに武力衝突へ至る。勝家は織田信孝や滝川一益と結び、秀吉包囲網を築こうとした。しかし越前は雪深い。冬の間、勝家は動くことができなかった。この間に秀吉は信孝を降し、一益を追い詰めて各個撃破を進めていく。三月、雪解けを待って勝家はようやく出陣した。近江北部の柳ヶ瀬に本陣を置き、余呉湖を挟んで秀吉軍と対峙する。
膠着が続くなか、秀吉が信孝の再挙に対応するため美濃へ向かった。この隙を突き、勝家の甥である佐久間盛政が独断で秀吉方の砦を襲撃する。盛政は中川清秀を討ち取る戦果を挙げたが、勝家の再三の撤退命令に従わず前線に留まった。これが致命傷となる。秀吉は美濃から五十二キロを五時間ほどで駆け戻ったとされる。世に言う美濃大返しである。
突如現れた秀吉の大軍に、盛政隊は崩壊した。さらに前田利家が戦わずして戦線を離脱する。勝家の与力であった利家の離脱により、柴田軍は総崩れとなった。この戦いで武功を挙げたのが、加藤清正・福島正則らの賤ヶ岳七本槍である。秀吉子飼いの若武者たちが、織田家の宿将を打ち破ったのである。
北ノ庄城の最期

敗走した勝家は北ノ庄城へ帰り着いた。追う秀吉軍は数万、城内に残る兵はわずかであった。勝家はお市の方に城を出るよう勧めたが、彼女はこれを拒み、ともに死ぬことを選んだ。ただし三人の娘は城から出され、秀吉のもとへ送られている。四月二十四日、勝家は城内で最後の宴を開いた。家臣たちに酒を振る舞い、別れを告げたと伝えられる。その後、天守に火を放って自刃した。享年六十二前後。
お市の方も同じく命を絶っている。勝家の辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲居にあげよ 山ほととぎす」と伝えられる。お市の辞世は「さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」。二人の歌は呼応しており、静かな覚悟が滲む。前田利家は勝家の最期を看取らず、秀吉に降った。勝家は利家を責めず、むしろ秀吉に付くよう勧めたと伝えられる。
なぜ勝家は敗れたのか
勝家の敗因は、しばしば秀吉との器量の差として語られる。だが実際には、より構造的な要因が重なっていた。第一に、越前という土地の制約である。冬季は雪に閉ざされ、軍を動かせない。この半年の空白が、秀吉に各個撃破の時間を与えた。第二に、本能寺の変への対応の遅れである。仇討ちという最大の名分を秀吉に取られたことで、織田家中の人心は秀吉へ流れた。第三に、調略の差である。
秀吉は丹羽長秀、池田恒興、そして前田利家といった諸将を次々に取り込んだ。勝家は武人としての信望はあっても、人を動かす搦め手を持たなかった。第四に、佐久間盛政の独断である。勇猛な甥の暴走を止められなかったことは、指揮官としての勝家の限界を示している。勝家は正面から戦う将であった。秀吉は戦わずに勝つ将であった。時代が求めた資質は、すでに後者へ移っていたのである。
人物像と評価
勝家は剛直で、飾らない人物であったと伝えられる。家臣に対しても率直で、部下からは慕われた。信長からは「かかれ柴田」と呼ばれ、突撃の先鋒を任され続けた。信長が最も危険な場所に置いたのは、それだけ信頼していたということでもある。一方で、政治的な駆け引きは不得手であった。清洲会議での敗北も、賤ヶ岳での孤立も、根は同じところにある。江戸期の評価は概ね好意的で、忠義と剛勇の武将として描かれた。
秀吉の敵役でありながら、悪人としては扱われていない。近年は越前の統治者としての一面が注目されている。検地と刀狩を先んじて行った実績は、彼が単なる武辺者でなかったことを示す。お市の方と最期をともにした逸話も、勝家像を柔らかいものにしている。滅びの美学とともに語られる、数少ない織田家の宿将である。
勝家ゆかりの地をたどる
福井市の柴田神社は、北ノ庄城の本丸跡に建つ。勝家を祭神とし、境内にはお市の方と三姉妹の像もある。発掘によって北ノ庄城の石垣や堀の跡が確認され、資料館で展示されている。九層の天守があったという伝承の真偽も、ここで学べる。九十九橋の石材である笏谷石は、福井の街のあちこちで見ることができる。勝家が整えた町の名残である。滋賀県長浜市の賤ヶ岳古戦場は、リフトで山頂へ登れる。余呉湖と琵琶湖を見下ろす眺望のなかに、両軍の布陣を想像できる。福井市の西光寺には勝家とお市の方の墓がある。二人が並んで眠る静かな寺である。
織田家臣団のなかの勝家
織田信長の家臣団は、実力主義によって編成されていた。譜代も新参も関係なく、成果を出せば方面軍を任され、失敗すれば追放される。その頂点にあったのが、北陸の柴田勝家、中国の羽柴秀吉、近畿の明智光秀、関東の滝川一益、四国方面の丹羽長秀らである。勝家は序列の上では筆頭家老であった。信長が発給する文書でも、家臣の連署では勝家の名が先頭に置かれることが多い。しかしこの序列は、必ずしも実力の順位ではなかった。
信長は結果でしか評価せず、古参であることに価値を置かなかった。林秀貞や佐久間信盛といった古参が晩年に追放されたのは、その表れである。勝家が最後まで重用され続けたのは、成果を出し続けたからにほかならない。信長という主君のもとで二十五年を生き抜き、四十九万石の方面軍司令官にまで登った。それだけで勝家の力量は証明されている。
賤ヶ岳を分けたもの
賤ヶ岳の戦いは、しばしば「秀吉の大返し」の勝利として語られる。しかし勝敗を分けた要素は、それだけではない。前田利家の離脱は決定的であった。利家は勝家の与力でありながら、秀吉とは若い頃からの親友である。板挟みのなかで、彼は戦わずに退く道を選んだ。勝家は利家を責めなかったと伝えられる。撤退する利家の陣を訪ね、これまでの縁を謝し、秀吉に付くよう勧めたという逸話が残る。
この場面は、勝家という人物の器を最もよく示している。敗北を悟りながら、部下の将来を気遣う余裕を保っていた。一方の秀吉は、勝家の首を取った後も柴田家の旧臣を多く召し抱えている。敵将への敬意と、人材を無駄にしない実利。両者の差は、その振る舞いにも表れていた。
北ノ庄城という城
勝家が築いた北ノ庄城は、足羽川と吉野川の合流点に築かれた平城である。北陸道を押さえ、加賀・越中への出撃拠点として機能した。宣教師ルイス・フロイスは、この城の天守が九層であったと書き残している。安土城を上回る規模となるため誇張とみる説が有力だが、壮大な建築であったことは確かであろう。屋根瓦には笏谷石が用いられていたとされる。福井周辺で産出するこの青みがかった石は、加工しやすく、城にも橋にも使われた。
賤ヶ岳の後、城は焼け落ちた。徳川の世になると結城秀康が新たな城を築き、地名も福井と改められる。勝家の城は地中に眠ることとなった。平成に入って発掘調査が進み、石垣や堀の遺構が姿を現した。柴田神社の境内で、その一部を実際に見ることができる。わずか八年の居城であったが、北ノ庄は勝家の理想を形にした場所であった。城と町と橋を一体で構想する発想は、後の福井へ確かに受け継がれている。
織田家の筆頭家老として二十五年を尽くし、北陸を平定し、越前の礎を築いた。その果てに、主君の遺した天下を継ぐ争いで敗れる。柴田勝家の生涯は、実直に働き続けた者が、必ずしも報われるとは限らないことを示している。それでも彼の名が愛され続けるのは、最後まで曲げなかった一貫性ゆえであろう。
当図鑑内の関連武将
勝家が生涯を捧げた主君が織田信長であり、その死後に覇権を争ったのが豊臣秀吉である。北陸方面軍では前田利家、佐々成政、不破光治が与力として勝家を支えた。北陸で戦った上杉謙信、賤ヶ岳で武名を挙げた加藤清正と福島正則、加藤嘉明。あわせてご覧いただきたい。
柴田勝家をめぐる人物
ゆかりの地
- 北の庄城址・柴田神社(福井市中央):勝家の居城の跡。勝家とお市を祀る
- 西光寺(福井市左内町):勝家とお市の墓所。柴田勝家公資料館がある(要事前連絡)
- 下社城址・明徳寺(名古屋市名東区):勝家の生誕地と伝わる地
- 賤ヶ岳(滋賀県長浜市):最後の決戦の地
この人物をもっと知る本
- 【新書】和田裕弘『柴田勝家 ― 織田軍の「総司令官」』(中公新書):勝家の生涯と、賤ヶ岳・北ノ庄の最期までを最新研究でたどる




















