淀殿の最期|大坂城でともに自害した人・生き延びた人の一覧 — 大蔵卿局・大野治長・千姫・初…落城の三日間【図解】

慶長20年(1615)5月8日、大坂夏の陣で大坂城が落ち、淀殿は子の秀頼とともに自害しました。豊臣家が滅んだその日、淀殿のそばには誰がいて、誰が城を出て生き延びたのでしょうか。

この記事では、淀殿の最期の様子を、大坂城にいた人々の「その後」の一覧とともにたどります。大河『豊臣兄弟!』第39回で秀吉の側室となる茶々が、およそ30年後にどんな結末を迎えるのか。人物ごとに整理してみましょう。

この記事のポイント

  • 淀殿は慶長20年(1615)5月8日、大坂城の山里丸(山里曲輪)の蔵で秀頼とともに自害したとされる
  • 最期をともにしたのは、乳母の大蔵卿局、側近の大野治長、毛利勝永・速水守久ら
  • 秀頼の妻・千姫は落城の前日に城を出て、徳川方に保護された
  • 淀殿の遺体は見つかっておらず、墓は京都の養源院や大阪の太融寺などにある
炎に包まれる大坂城を背に立つ淀殿のイラスト
落城の大坂城と淀殿(イメージ)
目次

大坂城、最後の三日間

大坂夏の陣、5月6日から5月8日までの出来事の年表
大坂城 最後の三日間(慶長20年5月6日〜8日)

慶長20年5月6日、豊臣方は大坂城の外に打って出ますが、道明寺や若江の戦いで後藤又兵衛・木村重成らが討死しました。翌7日の天王寺・岡山の戦いでは、真田信繁が家康の本陣に迫る奮戦を見せたものの討死し、豊臣方は総崩れとなります。この日の夕方、大坂城に火の手が上がりました。

淀殿の最期 — 山里丸の蔵で

天守が燃え落ちるなか、淀殿と秀頼は、城の北側にある山里丸(山里曲輪)の蔵に逃れたとされます。ここで大野治長は、秀頼の妻・千姫を城の外へ送り出し、千姫の口から秀頼母子の命を助けるよう願わせたと伝わります。

しかし願いはかなわず、5月8日、徳川方が蔵を囲み、鉄砲を撃ちかけます。淀殿と秀頼は、そこで自害しました。淀殿は40代後半、秀頼は23歳でした。蔵には火が放たれ、二人の遺体は確認されていません。

最期の様子は記録によって少しずつ違い、誰が介錯をしたのかなどの細かな点ははっきりしません。現在、大阪城公園の山里丸跡には「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」の碑が立っています。

淀殿とともに最期を迎えた人々

人物淀殿との関係最期
豊臣秀頼子山里丸で母とともに自害。23歳
大蔵卿局乳母淀殿とともに自害したとされる
大野治長乳母の子・側近千姫を城外に送り出したあと、秀頼母子とともに自害
毛利勝永籠城の武将天王寺口で奮戦したのち、秀頼のそばで自害したとされる
速水守久秀頼の側近(七手組の頭)最後まで秀頼に従い、自害したとされる
饗庭局侍女淀殿に殉じたとされる
正栄尼侍女淀殿に殉じたとされる

※このほか、真田信繁の子・大助(幸昌)も秀頼のそばで自害したと伝わります。山里丸で亡くなった人は30人ほどだったともいわれます。

前日までに討死した武将たち

人物立場最期
後藤又兵衛籠城の浪人衆5月6日、道明寺の戦いで討死
薄田兼相豊臣家の武将5月6日、道明寺の戦いで討死
木村重成秀頼の側近5月6日、若江の戦いで討死
真田信繁(幸村)籠城の浪人衆5月7日、家康本陣に突撃したのち、安居神社で討死

城を出た人・生き延びた人

人物淀殿との関係その後
千姫秀頼の妻・姪5月7日に城を出て、祖父・家康と父・秀忠のもとへ。のちに本多忠刻と再婚
初(常高院)妹冬の陣・夏の陣で和睦の交渉にあたった。落城の前に城を出て生き延び、寛永10年(1633)に亡くなる
織田有楽斎叔父夏の陣の前に大坂城を出て、京都で茶の湯に生きた
片桐且元もと家老格冬の陣の前に城を去り、徳川方に。落城から20日ほどのちに亡くなった
大野治房治長の弟落城後に逃れ、行方はわからない
明石全登籠城の浪人衆落城後に逃れ、行方はわからない
長宗我部盛親籠城の浪人衆城を逃れたが捕らえられ、5月15日に京都の六条河原で処刑

※秀頼には側室との間に男子の国松と女子がいました。国松は捕らえられて処刑され、女子は鎌倉の東慶寺に入って尼(天秀尼)となりました。

妹・初は何を見たのか

淀殿の妹・初(常高院)は、冬の陣のあとの和睦でも、夏の陣の直前の交渉でも、豊臣方と徳川方の間を行き来しました。姉を救おうと最後まで動いた初でしたが、交渉はまとまらず、落城の前に城を出ています。もう一人の妹・江は、徳川将軍・秀忠の妻として江戸にいました。大坂の陣のさなか、三姉妹がそろって顔を合わせることはありませんでした。

淀殿の墓と供養の地

  • 養源院(京都市東山区):淀殿が父・浅井長政の供養のために建てた寺。のちに妹の江が再建した
  • 太融寺(大阪市北区):淀殿の墓と伝わる供養塔がある
  • 大阪城公園 山里丸跡(大阪市中央区):「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」の碑

よくある質問

Q. 淀殿はいつ、どこで亡くなった?

A. 慶長20年(1615)5月8日、大坂城の山里丸(山里曲輪)にあった蔵で、秀頼とともに自害したとされます。

Q. 淀殿は何歳で亡くなった?

A. 生年を永禄12年(1569)ごろとする説に従えば、40代後半です(秀吉と茶々の歳の差は何歳?)。

Q. 千姫はなぜ助かった?

A. 千姫は家康の孫で、秀忠の娘です。落城の前日、大野治長らが秀頼母子の助命を願う使いとして城の外に出したと伝わり、徳川方に保護されました。

まとめ

淀殿は、大坂城の山里丸で、子の秀頼、乳母の大蔵卿局、側近の大野治長らとともに最期を迎えました。一方で、千姫や妹の初、叔父の有楽斎のように城を出て生き延びた人もいます。第39回で秀吉の側室となる茶々の物語は、およそ30年後、こうして大坂城で幕を閉じることになります。淀殿をめぐる人間関係は淀殿の人物相関図で整理しています。

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