秀吉と茶々の歳の差は何歳?茶々は何歳で側室に?年齢早見表でわかる二人の生涯【豊臣兄弟!】

大坂城で向かい合う50代の豊臣秀吉と20歳前後の茶々(イメージ)

大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀長が兄・秀吉に、茶々(井上和)をめとるよう勧めます。演じる池松壮亮さんと井上和さんの見た目以上に、史実の二人には大きな歳の差がありました。

秀吉と茶々は何歳離れていたのか。茶々は何歳で秀吉の側室になり、何歳で子を産んだのか。この記事では、二人の年齢を早見表で並べて、わかりやすく整理します。

先に結論:秀吉と茶々の歳の差

  • 歳の差はおよそ32歳(秀吉は天文6年〈1537〉生まれ、茶々は永禄12年〈1569〉ごろ生まれとする説による)
  • 茶々が側室になったのは20歳前後、そのとき秀吉は50代前半
  • 鶴松を産んだとき茶々は21歳ごろ・秀吉53歳、秀頼を産んだとき茶々は25歳ごろ・秀吉57歳
  • 茶々は、母・お市の方よりも、秀吉よりも、ずっと若い世代だった

※年齢はすべて数え年。秀吉の生年には天文5年(1536)説、茶々の生年には永禄10年(1567)ごろとする説もあり、1〜2歳の幅があります。

目次

秀吉と茶々の歳の差は何歳?

豊臣秀吉の生まれは、通説では天文6年(1537)です。一方の茶々は、生年をはっきり記した史料がありませんが、永禄12年(1569)ごろとする説が有力です。この二つの説をとると、二人の歳の差はおよそ32歳になります。

現代にたとえるなら、50代前半の男性と20歳前後の女性。親子ほども年の離れた夫婦でした。しかも茶々にとって秀吉は、父・浅井長政と母・お市の方を死に追いやった側の人物です(茶々はなぜ親の敵・秀吉の側室になったのか)。

大坂城で向かい合う豊臣秀吉と茶々(イメージ)
50代の秀吉と20歳前後の茶々(イメージ)

年齢早見表 — 秀吉と茶々は何歳のとき何があった?

年できごと秀吉茶々
1569年ごろ茶々、浅井長政とお市の方の長女として生まれる33歳1歳
1573年小谷城落城。父・長政が自害。秀吉は長浜城主に37歳5歳
1583年北ノ庄城落城。母・お市が柴田勝家とともに自害47歳15歳
1585年秀吉、関白になる49歳17歳
1588年ごろ茶々、秀吉の側室となる(時期には諸説)52歳20歳
1589年鶴松を産む53歳21歳
1591年鶴松、3歳で死去。同じ年に秀長も亡くなる55歳23歳
1593年秀頼を産む57歳25歳
1598年醍醐の花見。同じ年の8月、秀吉が死去62歳30歳
1615年大坂夏の陣。秀頼とともに自害―47歳

こうして並べると、茶々は5歳で父を、15歳で母を失い、20歳前後で親の敵の側室となり、30歳で夫の秀吉を見送ったことがわかります。秀吉亡きあとの17年間、茶々は幼い秀頼の母として、豊臣家を背負い続けました。

茶々は何歳で秀吉の側室になった?

茶々が秀吉の側室になった時期を記した確かな史料はありませんが、鶴松が生まれる前年の天正16年(1588)ごろとみるのが一般的です。このとき茶々は20歳前後。戦国時代の武家の娘としては、むしろ遅い結婚でした。当時は10代半ばで嫁ぐのが珍しくなかったからです。

北ノ庄城の落城(15歳)から側室入りまでの数年間、茶々がなぜ嫁がなかったのかはわかっていません。妹のお初・お江の縁組が先に進んでいることから、秀吉が茶々を手元にとどめていたとも、茶々自身が妹たちの将来を見届けてから嫁いだとも考えられます。研究者のなかには、天正14年(1586)ごろにはすでに秀吉の妻だったとする見方もあり、その場合、茶々は18歳前後で側室になったことになります。

秀吉は何歳で茶々の子を授かった?

秀吉が鶴松を授かったのは53歳、秀頼は57歳のときでした。50代で立て続けに子が生まれたこと、そして多くの側室のなかで子を産んだのが茶々だけだったことは、のちに「秀頼は本当に秀吉の子なのか」という説が生まれる一因にもなりました(茶々の子は本当に秀吉の子か?)。

秀吉が亡くなったとき、秀頼はまだ6歳。秀吉は死の床で、五大老・五奉行に秀頼のことをくり返し頼みました。歳の差の大きな夫婦から生まれた幼い跡継ぎ。その幼さが、豊臣家の大きな弱みとなっていきます。

寧々・お市と比べてみると

  • 秀吉と正室・寧々:寧々の生年には諸説ありますが、秀吉より10歳あまり年下とみられます。寧々と茶々も、20歳前後離れていたことになります
  • 秀吉とお市の方:お市は天文16年(1547)ごろの生まれとされ、秀吉より10歳ほど年下。茶々は、秀吉が若いころに仕えた主君・信長の妹の娘、という一世代下の存在でした

秀吉がお市に憧れていて、その面影を茶々に求めたという話もよく語られますが、これは確かな史料のない俗説です。

よくある質問

Q. 秀吉と茶々は何歳差?

A. およそ32歳差です(秀吉1537年生まれ、茶々1569年ごろ生まれとした場合)。生年の説によって30〜33歳ほどの幅があります。

Q. 茶々は何歳で秀頼を産んだ?

A. 25歳ごろです。そのとき秀吉は57歳でした。

Q. 茶々は何歳で亡くなった?

A. 慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、47歳ごろに秀頼とともに自害しました(淀殿(茶々))。

Q. 秀吉と茶々が出会ったのはいつ?

A. 秀吉は小谷城攻め(1573年)に加わっており、茶々が5歳ごろのときには、すでに顔を合わせていた可能性があります。確実なのは、北ノ庄城落城(1583年)のあと、15歳の茶々たち三姉妹が秀吉の保護下に入ったことです。

まとめ

秀吉と茶々の歳の差はおよそ32歳。茶々は20歳前後で50代の秀吉の側室となり、21歳ごろで鶴松を、25歳ごろで秀頼を産みました。親子ほども年の離れた二人の結びつきは、豊臣家に待望の跡継ぎをもたらすと同時に、幼い秀頼を残して秀吉が世を去るという、豊臣家の大きな弱みも生むことになったのです。

茶々の子どもについては鶴松はなぜ亡くなった?、秀吉の側室全体については豊臣秀吉の側室一覧でまとめています。

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