山上宗二 | 利休の高弟で堺の茶人。秀吉を怒らせて追放され、小田原で『山上宗二記』を残し、箱根湯本で処刑された

山上宗二のイラスト(イメージ)

やまのうえ そうじ

地域近畿(和泉・堺)
所属勢力・属性堺の町衆 → 豊臣家の茶頭 → 北条家の客分
大名家山上家
家紋―
主武器―
衣装・甲冑十徳・僧形
武将タイプ茶人・茶書の著者

山上宗二(やまのうえ そうじ)は、天文13年(1544)に堺で生まれた茶人である。薩摩屋を名のり、瓢庵(ひょうあん)とも号した。千利休に二十年あまり学んだ高弟で、豊臣秀吉の茶頭(さどう)をつとめたが、遠慮のない物言いで秀吉の怒りを買って追放された。各地を流浪したのち小田原の北条家に身を寄せ、天正18年(1590)の小田原攻めのさなか、秀吉の陣で処刑されたと伝わる。享年47。宗二が書き残した『山上宗二記』は、利休の時代の茶の湯を伝える第一級の史料になっている。

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

姉妹サイト「日本の歴史ガイド」がデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※姉妹サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

目次

利休のもとで二十年 — 堺の町衆から秀吉の茶頭へ

宗二は堺の町衆の家に生まれ、若いころから利休に茶の湯を学んだ。のちに自ら、利休のもとで二十年あまり茶の湯を学んだと書き残しており、利休の考え方をもっともよく知る弟子の一人だった。

信長・秀吉の時代、堺の茶人は天下人の茶会を取り仕切る「茶頭」として重く用いられた。師の利休、津田宗及、今井宗久が秀吉の茶頭の中心で、宗二もその一人として秀吉に仕えた。茶器の目利きにすぐれ、天下の名物の来歴や良しあしを誰よりもよく知っていたことは、のちの『山上宗二記』からもうかがえる。

秀吉を怒らせた「物言い」

宗二は茶の湯について妥協をせず、相手が天下人であっても思ったことをそのまま口にする人物だったと伝わる。辞典類では、その一徹な気性ゆえに秀吉の不興を買い、茶頭の座を追われたとされている。追放の時期ははっきりしないが、天正10年代のはじめごろとみられる。

追放されたあと、宗二は加賀の前田利家に一時仕えたが、ここも長くは続かず、高野山などを転々としたという。

天正15年(1587)10月の北野大茶湯は、師の利休と宗及・宗久が茶頭をつとめた、京の茶の湯の晴れ舞台だった。しかし宗二がこの場にいたという記録はない。茶頭として秀吉のそばにいたはずの宗二は、このとき、天下人の茶会を遠くから見る立場にあったのである。

小田原の北条家と『山上宗二記』

天正16年(1588)ごろ、宗二は東国へ下り、小田原の北条家を頼った。北条家では客分として迎えられ、関東に京の茶の湯を伝えたといわれる。北条家の重臣で外交を担った板部岡江雪斎の世話を受けたとされ、天正17年(1589)、宗二は江雪斎に茶の湯の秘伝書を書き与えた。これが『山上宗二記』である。

『山上宗二記』には、村田珠光から武野紹鴎、利休へと続く茶の湯の歴史、天下の名物茶器の一覧とその評価、茶の湯に向かう心構え、名人たちの人物評などがまとめられている。写本はいくつも残っており、渡した相手によって内容が少しずつ違う。利休自身はまとまった書物を残さなかったため、師の言葉と時代の名物を書きとめたこの書は、いまも茶道史を研究するうえでの基本史料とされている。

箱根湯本の最期 — 小田原攻めのさなかに

天正18年(1590)、秀吉は20万を超える大軍で北条攻めを始めた。3月29日には箱根の山中城がわずか半日で落ち(山中城の戦い)、秀吉は箱根湯本の早雲寺に本陣を置いて小田原城を囲んだ。

宗二はこのとき小田原から秀吉の陣を訪れた。利休のとりなしで一度は許されかけたが、ふたたび秀吉の機嫌をそこねる物言いをしたため、耳と鼻を削がれたうえで処刑されたと伝わる(『長闇堂記』)。日付は4月11日とする説が知られているが、2月27日とする説もある。

処刑の細かな様子は後の記録によるもので、どこまでが事実かははっきりしない。確かなのは、天下の名物を誰よりも知る茶人が、天下人の怒りにふれて命を落としたことである。翌天正19年(1591)には、師の利休もまた秀吉から切腹を命じられる(千利休はなぜ切腹したのか)。

『豊臣兄弟!』の時代と山上宗二

大河ドラマ『豊臣兄弟!』は第42回で北野大茶湯を迎え、このあと聚楽第行幸、そして小田原攻めへと進んでいく。宗二の生涯は、華やかな大茶会の陰で茶の湯の中心から外された茶人が、小田原攻めの陣中で命を落とすという、この時期の豊臣政権の光と影をそのまま映している。ドラマで茶会や小田原の場面が描かれるときには、その場にいなかった、あるいはその場で消えた一人の茶人がいたことを思い出してみると、物語の見え方が少し変わってくるはずだ。

関わりの深い人物

ゆかりの地

  • 早雲寺(神奈川県箱根町):秀吉が小田原攻めの本陣を置いた寺。境内に山上宗二の追善碑がある
  • 堺(大阪府堺市):宗二が生まれ育ち、利休に茶を学んだ町
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次