神流川の戦いをわかりやすく解説|本能寺の変のあと滝川一益はなぜ北条に敗れたのか ― 関東最大の野戦と、伊勢への逃避行

神流川の河原で北条の大軍を迎え撃つ滝川一益の軍を描いた日本画風イラスト

天正10年(1582)6月、本能寺の変の知らせが関東に届くと、信長の重臣・滝川一益の運命は一変しました。武田家を滅ぼしたあと上野一国を任され、関東の諸大名を束ねる立場にあった一益に、北条の大軍が襲いかかります。神流川の戦いは、本能寺の変のあと関東で起きた最大の野戦です。一益はなぜ敗れ、どうやって伊勢まで逃げ帰ったのか。わかりやすく解説します。

先に答え

神流川の戦いは、本能寺の変の直後、上野の滝川一益と、織田家との同盟を捨てた北条氏直の北条軍が、上野と武蔵の境を流れる神流川のほとりでぶつかった戦いです。

一益は初日の戦いに勝ちましたが、翌日、数で大きくまさる北条本隊に大敗しました。一益は上野を捨てて伊勢へ逃げ帰り、清須会議にも間に合いませんでした。上野を失ったことで、一益は織田家の重臣としての地位を大きく落とします。

神流川の戦いの基本データ
いつ天正10年(1582)6月18日・19日
どこ上野と武蔵の境、神流川のほとり(群馬県高崎市・埼玉県上里町あたり)
対立滝川一益(織田方)× 北条氏直・北条氏邦ら(北条方)
兵力滝川方 約1万8千(上野の国衆を含む)、北条方 約5万(いずれも諸説あり)
結果初日は滝川方の勝ち。2日目は北条方の大勝で、滝川方は数千の死者を出したとされる

3か月前の天目山の戦いで武田家が滅び、一益は上野と信濃の一部を与えられました。神流川の戦いは、その続きの物語です。

神流川の戦いの位置関係図
厩橋城・神流川と、一益が伊勢へ逃れた道(イメージ図)
目次

なぜ北条は一益を攻めたのか

北条氏政・氏直の親子は、武田攻めのころ織田家と手を結んでいました。しかし上野は、もともと北条も狙っていた土地です。武田の滅亡後、その上野を信長が一益に与えたことに、北条は不満を持っていたとされます。

そこへ本能寺の変の知らせが届きます。信長と嫡男の信忠が同時に亡くなり、織田家は混乱しました。北条にとって、上野を取る絶好の機会でした。北条は表向きは一益に変わらぬ付き合いを伝えながら、大軍を上野へ向けて動かします。

神流川の戦いに登場した主な武将(滝川方)

人物この戦いでの動き
滝川一益上野の厩橋城にいた織田家の重臣。上野の国衆を率いて北条を迎え撃つ
由良国繁上野・金山城主。一益に従って出陣する

一益のもとには上野の国衆が集まりましたが、その多くは、わずか3か月前まで武田に仕えていた人々でした。一益に従った期間は短く、心から一益のために戦う理由は多くありませんでした。

神流川の戦いに登場した主な武将(北条方)

人物この戦いでの動き
北条氏直北条家の当主。本隊を率いて上野へ攻め込む
北条氏政氏直の父で、北条家の実権を握る
北条氏邦氏政の弟で鉢形城主。先鋒として初日の戦いに臨む
北条氏照氏政の弟。上野攻めに加わる
大道寺政繁北条家の宿老。上野攻めに加わり、のちに上野の松井田城を任される
神流川の河原で北条の大軍を迎え撃つ滝川軍のイメージ
神流川で北条の大軍を迎え撃つ滝川軍(イメージ)

神流川の戦いの流れ

① 6月18日、金窪原の戦い ― 一益の勝利

最初にぶつかったのは、北条氏邦が率いる北条の先鋒でした。一益は神流川を越えて金窪原(埼玉県上里町)でこれを迎え撃ち、打ち破ります。初日は一益の勝ちでした。

② 6月19日、北条本隊との決戦

翌19日、氏直が率いる北条の本隊が到着します。兵の数はおよそ5万。一益の軍は2万に届きませんでした。両軍は神流川のほとりで激しくぶつかり、はじめは一益の軍も善戦しましたが、数でまさる北条軍に押し包まれ、ついに崩れます。

滝川方の死者は数千といわれ、その多くは上野の国衆の兵でした。一益の家臣にも多くの討死が出ています。

③ 一益、上野を去る

厩橋城に戻った一益は、上野にとどまって戦い続けることをあきらめました。上野の国衆から預かっていた人質を返し、別れの宴を開いてから城を出たと伝わります。一益は碓氷峠を越えて信濃へ入り、木曽を抜けて、7月はじめに本拠の伊勢長島へたどり着きました。

なぜ一益は敗れたのか

理由中身
① 兵の数の差北条本隊はおよそ5万。一益の軍は2万に届かず、正面からの決戦では勝ち目が薄かった
② まとまりのない軍一益の軍の多くは、少し前まで武田に仕えていた上野の国衆。一益との結びつきは浅く、信長という後ろ盾を失ったいま、命がけで戦う理由に乏しかった
③ 孤立無援本能寺の変で織田家は混乱し、関東に援軍を出す余裕はなかった。信濃の森長可も、甲斐の河尻秀隆も、自分の身を守るのに精一杯だった

神流川の戦いのその後

人物その後
滝川一益6月27日の清須会議に間に合わず、織田家の重臣としての発言力を失う。のちに柴田勝家に味方して秀吉と戦い、天正12年の蟹江城の戦いで失脚する
北条氏直上野を手に入れる。続いて信濃・甲斐をめぐって徳川家康と争う(天正壬午の乱)
河尻秀隆一益の敗北と同じころ、甲斐で一揆に襲われて命を落とす
森長可北信濃を捨てて美濃の本領へ戻る
真田昌幸一益が去った上野・信濃で、北条・徳川・上杉の間を渡り歩き、真田家の生き残りをはかる
徳川家康空白となった甲斐・信濃に兵を進め、北条と争う

一益は武田攻めのあと、領地よりも名物の茶入「珠光小茄子」がほしかったと嘆いたという逸話が残っています。遠い関東へ送られたことが、結果として本能寺の変のあと一益の運命を大きく狂わせました。

筆者のひとこと

前橋城(厩橋城)跡の碑
一益が本拠とした厩橋城(前橋城)の跡(筆者撮影)

一益が本拠とした厩橋城(前橋城)のほか、高崎城と箕輪城を訪れたことがあります。

前橋城は残念ながら遺構がほとんど残っておらず、石垣ではなく土塁の城です。いまは本丸の跡に群馬県庁が建っていて、福井城の本丸に福井県庁があるのと同じですね。それでも、敷地の広さから城の規模は伝わってきます。

ここを拠点に関東の諸将をまとめ、北条に対抗していこうとした矢先の本能寺の変でした。一益にとっては、まさに不運だったと思います。本能寺の変で運が尽きた、悲運の名将ではないでしょうか。

もし本能寺の変がなかったら、その後の滝川と北条の戦いを見てみたかったです。

まとめ

神流川の戦いは、本能寺の変が遠く関東の戦国にまで波を起こしたことを示す戦いでした。信長という後ろ盾を失った一益は、上野の国衆をまとめきれず、北条の大軍に敗れます。上野を失い、清須会議にも間に合わなかったことで、一益は織田家の中心から外れていきました。一方、一益が去った関東・甲信では、北条・徳川・上杉、そして真田による新たな争いが始まります。

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